小笠原諸島の独特の自然の価値が認めれユネスコ世界遺産に登録されて、今年で5年になります。しかし小笠原諸島に残されているのは豊かな自然だけではありません。
同地には約70年前の戦争の生々しい痕跡を現在でも見ることができます。

南洋方面の拠点となった小笠原

写真を拡大 連隊砲として歩兵に馴染み深かった四一式山砲。無線送信所に近い父島夜明山の洞窟陣地から東の海を睨む

 明治9年(1876)、公式に日本領となった小笠原諸島が、軍事上の要衝として注目されたのは第一次世界大戦のときだった。
 ドイツの委任統治領だった南洋方面への前進・中継基地とするため、大正3年(1914)に最初の軍事施設として海軍望楼が父島に設けられ、大正6年(1917)には父島二見港内に貯炭場がつくられた。父島が海軍の拠点になったことで、陸軍は「海上及空中ヨリスル敵ノ攻撃ニ対シ我海軍ト相俟チテ二見港ヲ掩護」する要塞を構築するべく、大正10年(1921)に港のそばに4つの砲台建設に着工した。

 だが、同年11月から翌年2月まで開かれたワシントン海軍軍縮会議で結ばれた太平洋防備制限条約によって小笠原諸島の要塞化が禁止される。父島要塞司令部は存置されたものの、着工から半年あまりで工事は中止となった。
 その結果、昭和2年(1927)には戦艦山城で昭和天皇が父島、母島に行幸されるなど、短いながら平和な時代が訪れた。
 やがて、わが国が国際連盟を脱退するなど、情勢が悪化して条約が破棄されると砲台工事は再開され、父島要塞重砲兵連隊を中心に守備を強化していく。海軍も昭和14年(1939)に父島海軍航空隊を開隊、昭和16年(1941)10月に根拠地隊を置いて対米戦に備えた。太平洋戦争の緒戦は日本が優勢だったため、小笠原諸島は昭和18年(1943)までは緊迫感がなく穏やかで、保養所のような雰囲気だったという。

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