中国の歴史書には、古代日本の姿が描かれている。「魏志倭人伝」もそのひとつである。魏は倭の女王・卑弥呼に使いを寄こすなど厚遇したと記されているが、その理由は何だったのか。争乱に沸いた時代背景や、倭の「貢ぎ物」の記録を読み解き、古代日本と中国の関係を明らかにする。
 

■魏は「近攻遠交」の外交政策から倭国と軍事同盟を結んだ

 魏が倭国を優遇したことには、中国北東部の制圧という軍事的な目的があった。その時代背景を追ってみよう。

 190年、遼東地方で後漢の地方官だった公孫度(こうそんたく)が独立政権を築いた。236年には、公孫氏の4代目である公孫淵(えん)が燕(えん)を建国する。魏が公孫淵を滅ぼすまでの220~238年は、魏呉蜀(ぎごしょく)と燕の「四国時代」であったといえる。232年には公孫淵は魏に対抗するため、呉を味方につけようと動いている。

 魏と呉、公孫氏・高句麗・倭の政治的利害関係は熾烈であった。公孫氏が204年に楽浪郡の南を分けて設置した帯方(たいほう)郡は、韓や倭の外交関係を担った。この時代、公孫氏と三韓の辰王(しんおう)、倭国の卑弥呼の3者は国際的外交関係を結んでいた。

 帯方郡をつうじた公孫氏との交流を示す出土品も多い。安満宮山(あまみややま)古墳(大阪府)や太田南5号墳(京都府)の方格規矩四神鏡(ほうきかくししんきょう)は「青龍3年(235)」と銘がある。魏の年号であるが、公孫氏政権からもたらされたものにちがいない。鳥居原(とりいはら)古墳(山梨県)の画が 文帯神獣(もんたいしんじゅう)鏡の銘「呉赤烏(せきう)元年(238)」は、呉と政治的関係のあった公孫氏から倭に流入したものであろう。これらの年号は、公孫氏が魏から呉へと臣従先を変えた時代と重なる。

 公孫氏討伐の翌年の景初(けいしょ)3年(239)、倭の女王・卑弥呼は難升米(なんしょうべい)ら家臣を遣わして、魏の王都に朝献(ちょうけん)した。卑弥呼が献じた男4人、女6人等の貢ぎ物に対して、銅鏡100枚をはじめとする莫大な下賜品が与えられた。その年の12月、倭の女王に「親魏倭王卑弥呼」の称号と金印紫綬(きんいんしじゅ)も授けられた。魏がこの東夷の倭国からの使いをきわめて重要視したことがわかる。はるか遠い世界から、徳を慕って朝貢する倭を厚遇したのだ。