中国の歴史書には、古代日本の姿が描かれている。「魏志倭人伝」もそのひとつである。魏は倭の女王・卑弥呼に使いを寄こすなど厚遇したと記されているが、その理由は何だったのか。争乱に沸いた時代背景や、倭の「貢ぎ物」の記録を読み解き、古代日本と中国の関係を明らかにする。
 

■高句麗侵攻のさなかに授与された黄幢は軍事同盟の印だった

 244年、魏は高句麗に侵攻し、王都・国内城を攻め落とした。翌年に再び侵攻し、6月に凱旋した。この年、倭の難升米(なんしょうべい)は黄幢(こうどう)(軍の指揮に用いる旗)を仮授(かじゅ)された(この時点では、実物を渡されてはいない)。魏は朝鮮半島の制圧のため、倭と軍事的関係をとり結んだのであった。その黄幢は詔書とともに、2年後の247年に張政(ちょうせい)ら魏の使者によって、難升米に直接授けられた。その年、卑弥呼と狗奴(くな)国の卑弥弓呼(ひみここ)との争いがあり、檄文も発せられた。

 つまり、黄幢じたいは魏の高句麗侵攻のさなかに授与されたものであり、軍事同盟の印だったのである。その後に起きた倭国内の争乱鎮静化のため、魏がわざわざ贈ったものではない。

 天理市黒塚古墳から出土したU字形鉄製品は旗の一種で、筆者は「黄幢」と推定している。黒塚古墳と同時期の中国遼陽北園(りょうようほくえん)1号壁画墓には、これと酷似した図像が描かれている。同じものだとすれば、黒塚古墳の被葬者は難升米といえることになる。黒塚古墳や京都椿井大塚山古墳の甲冑・武器は、張政ら魏の使節によってもたらされたものであろう。
 その後、台与(とよ)が倭国2代目女王となる。泰始(たいし)元年(265)、武帝が即位して西晋(せいしん)が成立すると、台与は翌年の泰始2年(266)に遣使した。『晋書(しんじょ)』武帝紀には「倭人、来りて方物を献ず」とある。このことは『日本書紀』神功紀(じんぐうき)66年条にも「晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」と引用されている。

 国土を統一した西晋は「東夷」諸国と国際的に交流していた。しかし313~314年、楽浪・帯方郡は高句麗によって滅ぼされ、両郡をつうじた倭と西晋との外交関係はとだえる。

 倭王卑弥呼から台与へと王権が継承された後の邪馬台国系列の王の記述は、史書の中ではとぎれる。倭王については、東晋泰和4年(369)の七支刀(しちしとう)の銘文に「百済(くだら)の近肖古(きんしょうこ)王から倭王に贈られた」と記される。また、大和政権の倭王族については、5世紀代に倭の五王の名が『宋書(そうじょ)』倭国伝にみえる。

 邪馬台国の境域内には、倭王系列と邪馬台国系列の前方後円墳が存在したようだ。4世紀末から5世紀初に倭王墓が移動する段階で、倭国内に唯一の倭王が存在するようになり、邪馬台国や奴国などの国名もなくなっていったのであろうか。