古代から近代まで。それぞれの時代において、日本人が世界をどのようにとらえていたのか。またそれが、世界の実情と比して、はたして本当に正しかったのか。
第2回は戦国時代の日本人の世界観を探る。
『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)のスペシャル講師としてもおなじみの河合敦先生に話を伺った。

 

 

 古代・中世の人々は、世界は日本・唐(中国が中心で朝鮮を含む)・天竺(仏教の聖地であるインド)で構成されていると認識していた。
 ただ、インドについては当時の人々は、中国や朝鮮を通じてもその情報がほとんど入ってこなかったので、具体的なイメージはできなかったろう。仏教の聖地ゆえ、仏法を極めるためインド入りした日本人僧侶はいなかったのかと思うかもしれないが、残念ながら、そうした事実は残っていない。
 ただ、目指そうとした僧はいた。それが高岳親王である。
 彼は平城天皇の第三皇子で、平城が病のために弟の嵯峨に皇位を譲るとき、皇太子となった。ところが後に平城と嵯峨は仲違いし、平城が失脚して東大寺で出家すると、後ろ盾を失った高岳親王も廃太子となった。それから十数年間、彼は醍醐山科に幽居していたというが、自由の身となると、出家して真如と称し修行に励み、空海の弟子となった。
 聡明な真如は、阿闍梨という高い地位を獲得、斉衡二年(八五五)には東大寺大仏の改修責任者となり、貞観二年(八六〇)、大仏の落成供養を取り仕切っている。天皇になれなかったものの、仏教界で見事栄達したのだ。
 さらに相当の高齢にもかかわらず、弟子たちと大宰府から船に乗って唐へ渡ったのである。その後、唐の諸寺院をめぐり、洛陽から長安の西明寺へ入った。このおり多くの高僧の話を聞くが、自分の腑に落ちず、仏法の真理を求めて天竺(西インド)への渡航を決意する。そして唐の許可を得て弟子三人とともに船でインドをめざしたのだ。
 残念なことに途中の羅越国(現在のシンガポール)で没してしまう。死因は熱病に冒されたとか、虎に襲われたというが、何とも破天荒な皇太子である。
 もし彼が無事にインドに着き、さまざまな見聞を国内に持ち帰っていたら、日本人の世界観は大きく変わったかもしれない。

ヨーロッパ人の来航で世界観が一変する

 日本人の世界観が大きく覆ったのは、十六世紀後半、南蛮人と呼ばれるポルトガル・スペイン人が来航したことである。これにより日本人は、唐・天竺の先に、さらに文明国があることを知った。また、織田信長も持っていたというが、地球儀が持ち込まれ、世界が球体であることを日本人に認識させたのである。まさに日本人とっては驚愕に事実であり、これまでの世界観は完全にくつがえってしまったのである。

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