戦国時代の真田氏について積年の疑問がある。今もってその謎は解けていない。折しも今は絶好の『真田丸』ブーム。これに便乗する形で恐縮するけれども、ここで皆さんに一緒に考えてもらいたいこがある。すばらしい答えを頂戴できれば、わたし個人とても嬉しいことであるし、真田氏研究からしてみても少なからず有意な話となるだろう。

 拙著『戦国の陣形』では、戦国軍事論の最先端から諸説を見直した。そこで、天文十七年(一五四八)二月十四日の上田原合戦で、旗本を武装別に再編成した村上義清が、指揮官の号令に応じて動く集権的な軍隊を使ったのが、戦国時代における兵種別編成(諸兵科連合)の嚆矢であることを指摘した。
 それまで武士の軍隊といえば、ヤクザの集まりみたいなもので、それぞれが自分の手下を率いて、親分のもとにあらわれ、めいめいが自分の手下と一緒に戦うのが一般的だった。義清は常識を覆す画期的な戦術を初めて演じてみせたのだ。なぜ義清は新しい軍隊を使うことができたのだろうか。それには暗い背景があった。真田幸綱(幸隆)の謀略である。

 天文十五年(一五四六)十一月、村上義清と対立する幸綱はある謀略を仕掛けた。真田方の須野原兄弟(若狭と惣右衛門)を義清のもとに送り込んだのである。

 かれらは「真田には愛想が尽きた。これからは村上どのと昵懇にしたい」と申し出た。しかも兄弟は毒を食らわば皿までの覚悟であろうか、なんと「真田の城(真田氏居館・真田本城・松尾古城など諸説あり)を奪って差し上げる」と提案した。徹底して裏切り者となる覚悟に、義清の心は動いた。兄弟に牛王宝印の起請文を提出させ、忠誠を誓わせると、旗本の騎馬武者から屈強の武士を五〇〇人選び出し、これを「真田の城」へ送り込んだ。もちろん先導は須野原兄弟である。

 だが遣わされた旗本たちが義清のもとに戻ることはなかった。須野原兄弟ははじめから義清に下る気など微塵もなかったのである。義清の旗本は「曲輪」(二の丸か)に入ると、出入り口を塞がれた。そして本丸と三の丸から真田の兵が旗本たちを挟み撃ちにした。このとき、どういう戦いがあったのかは記録にない。ただ、義清の旗本は一人残らず殺されたという。しかも真田方の死傷者はゼロ。おそらくここでなされたのは「戦い」ではなく一方的な「虐殺」だったのだろう。

村上義清は北信濃の戦国武将。武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度も撃退するなどの武勇で知られ、村上氏の最盛期を誇ったが、戦国大名としては最後の当主となった。