大相撲三月場所は横綱・白鵬の優勝を決めた一番が変化かいなしかで議論が沸騰するなど、なにかと話題になりました。相撲と言えば、力士が東西に分かれて組み、行事が勝敗を判定するという形は織田信長が催した相撲のイベントが起源だという説もあります。

 というわけで、本日のお題は信長と相撲。今から438年前の天正6年2月29日(現在の暦で1578年4月6日)、織田信長が安土山の城中で相撲大会を開催。

『信長公記』に
「江州国中の相撲取三百人召寄せられ、安土御山にて相撲とらせて御覧候」
 とあるように近江中から集められた力自慢・技自慢が信長にその熱戦をお目にかけた。特に選抜相撲を戦った23人は全員に扇が下賜され、その中の日野長光という者はさらに金銀で彩色された扇を信長の御前で与えられるという栄誉に預かっている。

 信長はこの時だけでなく半年後の8月にも安土山で1,500人の相撲取りを集めたさらにスケールの大きい相撲大会をおこない、その翌月にも安土山で相撲大会、10月は京で相撲大会、翌天正7年(1579)8月にも安土山で相撲大会、天正8年(1580)5月にも2回相撲大会、6月にはナイターで相撲大会、天正9年(1581)4月に最後の相撲大会、とおびただしい数の相撲大会を催している。

 その理由は、無論信長が大の相撲好きという事も大きかったが、筋骨すぐれ格闘に長じた若者を召し抱えて親衛隊を編成するという実利、それに領内の不満を大会の熱狂で消し去るという狙いもあった事だろう。

 そして、もうひとつ、実はこれが一番大きな目的だったのではないかと思うのが、相撲の四股は土中の邪気を払い清める儀式から始まったという説だ。

 信長以前の同地は、かつて存在した地元の寺・常楽寺の名で呼ばれていたらしいが、一説には信長が天正4年(1576)に城を築くにあたり、ここを「安土」と改名したという。

 その意味は「平安楽土」の実現にあり、ともされるが、実は単純に「土を安んずる」、つまり土を清め、安らがせるという事だったのではないだろうか。信長は安土の山上山下に城と城下町を開発するにあたり、地盤の安定を非常に重視したのだ。

 山肌を大幅に削って高石垣を積み上げ、低湿地を埋め立てて市街地を造り出す作業には、それが何よりも大事だったからだ。

 そして信長は、土を安んじて築き上げた城郭の中心に、「天主」を据えた。土を安んじ天の主となる。まさに、天と地の王として地上にも君臨しようという、信長の巨大な野望の現れだったのではないだろうか。

 信長が安土に築城した当時、山は琵琶湖に接していたが、昭和になって干拓が進み、湖岸は安土山から離れた。400年の時を経て、信長の「安土」は形を変えて実現されたのだ。

 

※安土城本丸跡
 

 

※安土城天主跡
 

 

 ※安土城から琵琶湖を望む