「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

家康との会見直後に発病したのは偶然か?


 佐々宗淳(さっさ・むねきよ)という人物をご存知だろうか。「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎(すけさぶろう)のモデルとなった男である。実在の黄門様、徳川光圀(みつくに)から『大日本史』編纂のための資料収集を命じられた宗淳は、接した膨大な記録の中からのちに『十竹斎(じっちくさい)筆記』という雑記録を著した。その中に紹介されているのが、有名な「加藤清正(きよまさ)毒殺説」だ。


 同書によると、慶長16年(1611)3月、加藤清正は大坂城から豊臣秀頼(ひでより)に付き添って上洛し、二条城で徳川家康との会見に臨んだが、毒殺を恐れた秀頼は饗応の食事を「食べるふり」だけして済ませた。このため、家康は次の間に控えた家臣・平岩親吉(ちかよし)に毒饅頭を食べさせ、安心させて加藤清正・浅野幸長(よしなが)・池田輝政(てるまさ)に食べさせた、というのだ。幸長・輝政の死についてはまた後に紹介するが、実際、この旧豊臣大名の3名と親吉は2年の間に亡くなっている。


 伝記『清正記』によれば、二条城での儀式を終えた清正は、翌々月に領地の熊本への帰路につくが、その船中で発熱した。彼は家臣たちに「寿命が尽きたようだ。十の内十一(110%)、死ぬだろう」と宣言したという。続いて『続撰清正記』は、熊本へ着いて2・3日たつと、清正は口もきけなくなったと記している。これらは後世の編纂史料だが、当時リアルタイムで清正の死を見聞した京・醍醐寺(だいごじ)の僧・義演(ぎえん)も日記に「5月26日から発病していた清正が、6月24日に亡くなった」と記録しているから、清正の発病から死への過程はおおよそ伝記の通りだったのだろう。

 

 こうして清正は慶長16年6月24日丑刻(午前2時頃)に世を去る。