毛利元就肖像画(東京大学史料編纂所所蔵模写)

 

謀略を駆使して、弱小領主から一代で中国地方を制覇した毛利元就。その死に際に、3人の息子に語ったとされる「3本の矢」の逸話は後世の創作とされるが、その遺訓には明治維新まで続く毛利家を守った「知恵」が秘められていた――。

 

一方、父の死に目に会えなかった元春は、出雲高瀬の陣営で涙にくれ、「僧を招き、花や燈明(とうみょう)を供え、念仏・写経は隆景らがやってくれよう。われは位牌を抱いて、父の初七日の供養に敵を打ち破ろう」と、諸士に檄を飛ばし、やがて山中鹿助(やまなか しかのすけ)を攻略した。

この元春は、兄隆元の跡を11歳で継いだ輝元をよく補佐した。輝元は元春に「父の在世中のように、毛利に対し無二の援助をお願いしたい。重要な事柄は何事も直談で取り決めます」と起請文(きしょうもん)を送り、元春も輝元の母尾崎局(おざきのつぼね)に「輝元のためなら、水の底に潜ってまでも奉公する覚悟です」と述べ、父の教訓状を輝元に対しても守ることを約束した。

それは隆元も同じだった。隆景は輝元の教育に熱心で、元春よりも厳しくあたった。輝元が宗家の大将でありながら、武将としての力量に欠けるところがあったからだ。甥が大藩を束ねられる器量人になって欲しいとの一念から、時に折檻することもあり、輝元は隆景に恨みを抱いたこともあった。

その隆景は常に君臣の礼を忘れず、輝元が不在の時でも、輝元の御座の間の前を通る際は、必ず膝を折り、両手をついてから通ったという。

ところで、父親思いで孝心に厚く、温順な性格だった隆元は、元就が67歳の時、41歳で急逝した。

 

注/毛利隆元の正室で輝元の生母。隆元の急死後も、輝元を熱心に教育したという。

 

文/楠戸義昭(くすど よしあき)

1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。