太宰府天満宮や観世音寺、国分寺など、歴史ある神社仏閣が建ち並ぶ太宰府。太宰府周辺の地図を眺めていると、「太宰府」と「大宰府」、ふたつの表記があることに気が付く。これはどうしてなのか? 古代からアジアの玄関口であり、いまなお歴史の舞台となり続ける福岡の通史が楽しめる『福岡 地名の謎と歴史を訪ねて』を上梓した歴史研究家の一坂太郎氏に聞いてみた。
唐や新羅の進攻に備えて築かれた水城の遺構(写真:一坂太郎)

●大宰府は軍事・外交の拠点だった

 大宰府は古代、律令制下での西海道(九州)諸国を統括していた総官府で、筑前国にあった。略して「宰府」とも言う。主な役割のひとつとして、大陸からの来朝使節の送迎と接待があった。

 古くは『日本書紀』推古十七年(六〇九)に、「筑紫大宰」とある。「大宰府」の地名の初見は天智十年(六七一)に出て来る「筑紫大宰府」だとされる。

 『和名類聚抄』によると、古い訓読みは「オホ ミコトモチノツカサ」だった。各地の国司が「ミコトモチノツカサ」だったことを考えると、その規模が特別大きかったことがうかがえよう。

 「都府楼(とふろう)」と呼ばれた政庁を中心に、前後に諸官庁、諸寺院、学校などの施設が軒を並べていた。さらにその府郭を包むように、政庁の背後には大野城、府の北側の入口には水城といった防衛施設が築かれていた。「大宰府」の範囲は、左右両郭十二坊、南北二十二条からなる条坊制で出来た郭内のみを指すとの説と、その周囲の寺社なども含むとの説もある。

 ここが中国大陸や朝鮮半島との軍事・外交の拠点として、重要な役割を果たすようになったのは、次のような事情がある。

 七世紀半ば、新羅は唐と結んで、朝鮮半島南部の百済を攻めた。百済は日本とは三百年にわたる親交がある。また、半島南部を唐に侵略されたら、次は日本が危ない。そこで日本は天智元年(六六二)、百済に大軍と援助物資を送った。翌年、半島南西の白村江で戦いが行われたが、日本は大敗北して、百済は滅ぶ。

 次は日本に、勢いづいた唐や新羅が海を渡って攻め込んで来るかもしれないとの危機感が高まる。そこで、博多から大宰府への入口に水城が築かれた。それは高さ十三メートルもの土盛りが、全長一キロメートルにもわたって続くという壮大なものだ。『日本書紀』には、天智三年に「筑紫に大堤を築きて水を貯(たくわ)へしむ。名づけて水城と曰ふ」とある。築城を指導したのは、百済から亡命して来た憶礼福留(おくらいふくる)・四比福夫(しひふくふ)だという。

 やはり『日本書紀』によると、六六五年に大宰府政庁の背後、四王寺山(四一〇メートル)に、朝鮮式山城である大野城(大城)が築かれた。尾根に沿って全長八キロメートルにもおよぶ土塁があり、六カ所の石垣、四カ所の門、内部には七十棟もの倉庫が建てられたという。ただし唐や新羅は攻め寄せなかったため、実戦に使われることはなかった。

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