江戸時代の日本人は世界をどのようにとらえていたのか。またそれが、世界の実情と比して、はたして本当に正しかったのか。
『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)のスペシャル講師としてもおなじみの河合敦先生に話を伺った。

 鎖国というシステムから生まれた世界観

 政権が二百六十年間も平和的に続くというのは、世界史的にも稀な現象である。おそらく百五十年続いた戦国という殺伐とした時代に日本人が懲りた反動だと思われるが、鎖国というシステムが政権安定の一助となったのもまた確かであろう。

マテオリッチの世界図をもとにした、正保2年(1645)ごろの刊行図に始まるとされる万国総図系の小型世界図。


 幕府はキリスト教を厳禁し、それまでつきあいのあったスペインとポルトガルを駆逐し、中国、朝鮮、オランダ以外とは交際しなかった。これを鎖国と呼ぶが、この外交制限によって江戸期の日本人に独特の世界観が生まれることになった。
 それが「日本型華夷意識」とか「日本型華夷観念」と呼ばれるものである。
原始・古代の日本は、中国の冊封下に入って国家の発展を遂げてきた。中世に明が成立すると、室町幕府も貿易の利益のためにあえて冊封を受けたという経緯がある。「あえて」としたのは、離脱する自由を有していたからだ。
実際、四代将軍足利義持は朝貢形式が屈辱だとして日明貿易を中断している。中国から海を隔てているという地理的関係からそれが可能だったのだろう。
戦国時代、交易をになっていた大内氏が滅亡したことで日明貿易は途絶え、さらに豊臣秀吉の朝鮮出兵によって明との国交は断絶した。
このため徳川家康は「明との貿易再開を切望し、明中心の中国型世界秩序を前提とする勘合符の発給を、たびたび明に要請した」のだ。「しかし家康が世を去ってから、二代将軍秀忠は、明中心の国際システムへの参入は幕府の正当化を妨害するものとして、明との国交回復・勘合貿易を、明からの打診を却下してまで、断念した」(ロナルド・トビ『日本の歴史第九巻 鎖国という外交』小学館)のである。
 さらに十七世紀半ば(将軍家光の時代)、中国では漢民族の国家である明が女真族(満州族)に滅ぼされ、野蛮な北狄とされた彼らの清朝が中国大陸を制圧した。日本の学者たちは「中華」と「夷狄」の逆転現象がおこったとして幕府のお抱え儒者・林鵞鳳はこれを「華夷変態」と呼んだ。さらに山鹿素行はその著書『中朝事実』のなかで、「中国はたびたび王朝が変わり、家臣が皇帝を殺すことも珍しくなく、君臣関係が守られていない。それに比較して我が国は万世一系の天皇がおり、外国の侵略も受けたことがない。つまり日本こそが中朝=中華なのだ」と主張した。
 こうしたなかで、江戸中期に国学が成立する。
 

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