『魏志』倭人伝の中で、倭国の女王として記されている卑弥呼。邪馬台国に居住し、30ほどの国を治めていたという。しかしその正体は実に多くの謎に包まれている。女王としての素顔と人物像を紐解いていく。
 
第2回では、卑弥呼の内政について取り上げた。彼女は「鬼道」にたくみであり、呪術を通して人々を支配していたとされる。


■魏に使者を送り外交手腕を発揮

 それでは、外交はどうであろうか。景初(けいしょ)3年(239)、卑弥呼は大夫(たいふ)の難升米(なんしょうまい)らを帯方郡(たいほうぐん)を通じて魏へ遣った。『魏志』倭人伝は景初2年のこととしているが、景初3年の誤りとするのが一般的である。

 この遣使は絶妙のタイミングといえる。というのは、それまで帯方郡を実質的に支配してきた公孫氏(こうそんし)が、景初2年に魏の大軍を率いた司馬懿(しばい)によって滅ぼされたのである。公孫氏は、帯方郡を支配し、時には大陸の南方の呉と結び、魏に敵対していたため、魏にとっては好ましくない存在であった。その公孫氏がようやく滅んだのである。魏にしてみれば、心情的にも使節をていねいに扱ったであろうし、儀礼的にも厚遇した可能性は十分にある。

 こうした魏の態度が、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えるという破格な待遇となってあらわれる。卑弥呼ばかりではない。このとき使節として派遣された難升米には率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)、牛利には率善校尉(そつぜんこうい)の称号と銀印青綬(ぎんいんせいじゅ)が与えられた。銅鏡100枚の他さまざまな品が与えられたのもこのときである。

 その翌年の正始(せいし)元年(240)、魏は帯方郡大守の弓遵(きゅうじゅん)らを遣わし、皇帝の詔書や印綬、その他の品々を与えた。それに対して、卑弥呼は、感謝の使節を派遣したとある。 正始4年(243)にも卑弥呼は、大夫の伊聲耆(いせいぎ)ら8人を使節として、生口(せいこう)(奴婢)などを献上した。魏は8人に率善中郎将・印綬を与えている。正始6年(245)には、魏は詔を出して難升米に黄幢(おうどう)(黄色の軍旗)を下賜している。

 そして、正始8年(247)になると、卑弥呼は帯方郡に使節を送り、狗奴国(くなこく)と交戦状態にあることを報告している。魏はこれに応じて檄を出して調停にあたったと思われる。この時期に卑弥呼は亡くなっている。

 このように、卑弥呼の外交は、景初3年(239)以降、活発な様子がうかがわれるが、それ以前についても、帯方郡や朝鮮半島諸地域、そして、中国などを対象とした積極外交があったものと思われる。そして、それは、女王の卑弥呼の名のもとにおこなわれたが、実質は難升米をはじめとする大人層によるものであったことはいうまでもない。


《謎多き女王・卑弥呼の正体に迫る 第4回へつづく》