卑弥呼の死を唯一記録する「魏志倭人伝」には、死因はおろか、死亡年の記載すらない。「卑弥呼以て死す」。その7文字で、大国・魏と交流を持ち倭国を治めた女王は、突如、歴史上から姿を消したのだ。女王に死をもたらした原因は果たして何だったのか。卑弥呼の死因にまつわる諸説を考察する。
 

■巫女的であり、宗教王としての性格もはらんでいた卑弥呼

 日本の歴史上、最も有名な人物の1人である卑弥呼(ひみこ)の実像はというと、意外なほどわかっていない。死因についてもしかりである。その理由は、ひとえに史料の少なさによる。このことは、何も卑弥呼に関することだけではなく、邪馬台国(やまたいこく)関連の問題全般についていえることである。『三国志(さんごくし)』の中の「魏志(ぎし)」の東夷伝(とういでん)倭人(わじん)の条、いわゆる「魏志倭人伝」と称される2000字たらずが卑弥呼を含む邪馬台国について知ることのできる直接的な史料なのである。

 とはいうものの、「魏志倭人伝」を注意深く読むとさまざまなことが見えてくるのも事実である。たとえば、卑弥呼はもともとは王ではなかった。倭の中で魏へ朝貢(ちょうこう)していた30ほどの国からなる邪馬台国連合の王は男性であった。しかし、国々が乱れて争いあった結果、卑弥呼を女王にしてようやく治まった。卑弥呼は「鬼道(きどう)」を行ったとある。「鬼道」については、道教的な呪術という説をはじめ諸説あるが、いずれにしても呪術の一種といってよいであろう。さらに、年が「長大(ちょうだい)」で「夫婿(ふせい)なし」とある。「長大」は老齢とする説があり、これだと老女で夫がいないとなる。しかし、「長大」を成人とする説もあり、こちらをとると、成人した女性であるが、まだ夫がいないということになる。

 さらに「魏志倭人伝」を見ていくと、弟がいて政治を助けているとある。卑弥呼は女王になってからほとんど人前に現われず、1000人の婢(ひ)にかしずかれて生活しており、1人の男子のみが宮殿への出入りを許され、飲食を給し、言葉を伝えているとある。これらのことから、卑弥呼は巫女(みこ)的であり、宗教王としての性格をもっていたと考えられよう。

 また、卑弥呼は、景初3年(239年)に、帯方郡(たいほうぐん)経由で魏へ遣使(けんし)している。これに対して、魏は卑弥呼を親魏倭王となし、金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えた。さらにその6年後の245年、卑弥呼は狗く奴国(なこく)の卑弥弓呼(ひみゆこ)との交戦を魏に報告して援助を求めている。狗奴国との交戦については、247年にも報告され、張政(ちょうせい)らが邪馬台国に遣わされ黄幢(こうどう)(軍事指揮に用いられる旗の一種)などをもたらした。

 そうした最中に卑弥呼は亡くなるのである。その時の状況について「魏志倭人伝」は、「卑弥呼、以て死す(そして、卑弥呼は死んだ)」と記すのみである。したがって、卑弥呼は何が原因で死んだのかについては、まったくふれていない。


《卑弥呼の死の謎 第2回へつづく》