卑弥呼の死を唯一記録する「魏志倭人伝」には、死因はおろか、死亡年の記載すらない。「卑弥呼以て死す」。その7文字で、大国・魏と交流を持ち倭国を治めた女王は、突如、歴史上から姿を消したのだ。女王に死をもたらした原因は果たして何だったのか。卑弥呼の死因にまつわる諸説を考察する、最終回。
 

■倭国には呪力のなくなったシャーマンを殺す習慣があった!?

 それでは、卑弥呼の死因は何であったのか? この点について「魏志倭人伝」を注視するならば、狗奴国と戦争中であったことがわかる。その最中に亡くなったということを重視すると、戦死ということが浮かんでくる。狗奴国との戦いは長期にわたったようであり、しかも狗奴国の勢力は強大であったことが、卑弥呼の魏への支援要請からも感じられる。そうした中で、卑弥呼が戦陣で倒れたということは、ひとつの説として十分に成り立つように思われる。

 また、狗奴国との交戦を重視する考えでは別の死因も考えられている。それは、長期にわたる戦いにもかかわらず、勝利を得られないことに対する責任を取らされたというものである。張政らがやってきたのは、卑弥呼への責任追及のためとみるのである。戦況が長期間にわたって思わしくないことを考えれば、この説も可能性として成り立つと思われる。

 こうした狗奴国との戦いに、巫女としての卑弥呼の性格を加味して、殺害されたという説も出されている。卑弥呼が亡くなったと推測される247年には九州で日食が、翌248年には大和(やまと)で日食がそれぞれ起きている。2年続けての日食、すなわち天変地異(てんぺんちい)は、当時の人々に大きな不安を与えたのは確かであろう。加えて狗奴国との戦いは先が見えない状況である。これらは、女王である卑弥呼の責任であるということになったのではなかろうか。特に日食という不気味な天変地異は、卑弥呼の巫女としての呪力がなくなったと考えられても不思議はない。こうした理由で卑弥呼は殺されたというのである。巫女としての卑弥呼と日食を結びつけた考えは興味深く、こうした説も成立する可能性はあるであろう。しかし、細部にわたってみるならば、247年の日食は九州でのものとされ、翌248年のものは大和でのものといわれており、場所が異なる点をどのように理解するのかという点や、日食がどうして卑弥呼だけの責任にされるのかといった点をもう少し考えなければならないであろう。

 卑弥呼の巫女的性格という点では、むしろ、「魏志倭人伝」に見られる持衰(じさい)が興味深い。倭国では、外洋に航海するさいに1人の持衰を乗せたという。持衰は航海中、頭髪もととのえず、しらみもとらず、衣服は垢でよごれても取り替えることなく、肉も食べず、女性も近づけず、まるで喪に服したように禁を守り続けるとある。そして、航海が無事にすめば財物などが与えられるが、航海がうまくいかなかったときは責任を取らされて殺されたといわれている。ここに見られる持衰もシャーマンといってよいであろう。そして、持衰の責任の取らされ方を参考にするならば、戦争に勝利できなかった卑弥呼が殺害されたという可能性も否定できないように思われる。

 最後に、最もドラマチックでない死因について述べるならば、老衰説である。卑弥呼の年齢について「長大」とあった点にこだわり、しかも「長大」を老齢とみるならば、卑弥呼は老衰で亡くなったというのが案外、自然かもしれない。いずれにしても謎はつきないのである。