「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

梅毒・ハンセン病・毒殺……飛び交う死因の噂

 

 加藤清正は二条城での家康との会見のあと、熊本への帰路に発熱。1ヶ月後に死去した。そして死のの直後から、家康による毒殺説が飛び交った。


 そんな清正の死について、徳川幕府側の史料『当代記』は「加藤清正、浅野幸長、池田輝政が相次いで亡くなったのは、彼らの好色による腎虚(じんきょ)のせいだ」としている。たしかに彼らはみな性病に罹患(りかん)していた形跡があり、それも共に出陣した朝鮮遠征(文禄の役・慶長の役)で遊女に接した結果だとも言われる。梅毒に感染してから死に至るまでの期間は10年ほどだから、タイミングとしてはおかしくない。

 また、もうひとつの説として清正はハンセン病だったという伝承もある。これを信じるハンセン病患者たちは、清正の菩提寺・本妙寺に集まって回復の御利益を期待し、参詣者に物乞いをして過ごしたというが、これはどうだったろうか。ハンセン病であれば、同じくこの病の罹患者だったという大谷吉継(よしつぐ)(※豊臣大名。関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、討ち死にする)同様、具足や兜などの着用に皮膚が耐えずに対策を必要とした筈だが、そんな形跡は清正には見られない。


 いずれにしても、清正の死については、一応は病気が原因とされている事には違いない。 では、なぜそれにも関わらず「毒殺説」が喧伝されたのだろうか。