「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 
 

英雄・清正を恐れた家康の陰謀? 死の真相はいかに

 

 加藤清正の死因は一般的には病死として扱われた。それでも、その死を「毒殺」とする説が広く流布した。これはなぜだったのか。


 かつて朝鮮遠征で奮戦した清正を恐れた地元の人々は彼を「鬼上官」(幽霊将軍)と呼び、加藤家の紋である「蛇の目」を魔除けに使った。また、家康の天下となって江戸に参勤した時も彼は江戸の市民から「江戸のもがりにさわりはすると よけて通しゃれ帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)」と謡われ、畏敬されている(帝釈栗毛は清正の愛馬)。まさに、絵に描いたような英雄であろう。
そんな男が肥後熊本54万石の大大名である上、亡き秀吉の夢を見て「ご機嫌の良い様子だった」と人に手紙で知らせるほどに、かつての主家・豊臣家を大切に思う姿勢を隠さない。これは家康にとって大いなる脅威だった。


 一方で清正の方も、家康の養女として輿入れして来た正室と奥で過ごす際には、いつも刀を離さず、膝元に置いていた(『名将言行録』)という。互いの不信が高まった結果、清正は「長生きすれば徳川と豊臣の戦うような事態にも出くわし、どちらにも恩のある自分は身動きがとれなくなるから、早く死ぬように不養生をしているのだ」と語っていた(『烈公間話(れっこうかんわ)』)ように、強烈なストレスを常に受け続けていた。

 

 毒を盛られたかどうかは別として、このストレスが毒のように清正の肉体をむしばみ、死期を早めた事だけは間違いないのではないだろうか。清正死後、加藤家は家康の腹心・藤堂高虎の管理下に置かれてしまった。