毛利元就肖像画(東京大学史料編纂所所蔵模写)
謀略を駆使して、弱小領主から一代で中国地方を制覇した毛利元就。その死に際に、3人の息子に語ったとされる「3本の矢」の逸話は後世の創作とされるが、その遺訓には明治維新まで続く毛利家を守った「知恵」が秘められていた――。

 

隆元は尼子氏と対峙した宍道湖(しんじこ)に臨む洗合(あらわい)山にいる元就の陣営に急ぐ途中、叔母婿の和智誠春(わち まさはる)が治める中国山地の南天山城(なんてんざんじょう)に立ち寄った。

そこで鹿肉や鮎を中心とした豪華な料理の接待をうけた。その夜中、隆元は激痛に襲われ、夜明けを待たず絶命した。食中毒とみられるが、毒殺の風評がたった。理由はどうあれ、隆元を失った無念は消えず、元就は2年後に誠春を殺害した。

その隆元は常に、病身ながら帷幕(いばく)を離れない元就を心配し、わざわざ厳島(いつくしま)神社に出向き、「もし父に病難が襲えば、自分が身代わりになります」と願文を捧げている。

また九州から出雲に向かう途中で隆元は急死するが、その直前、郡山城近くを通った。だが、父が戦場で苦労している最中に、城で妻子に会い、団欒(だんらん)の時は過ごせないとして素通りした。

元就の子どもたちは、正室(せいしつ)妙きゅう(王へんに久)が産んだ3兄弟だけでなく、側室のもうけた息子たちも、元就の言葉を守って、団結して毛利氏のために働いた。

(続く)

 

注/備後国・国人和智氏の当主で、父・豊郷の代から毛利氏に従属。天文24年(1555)の厳島の戦いでも毛利方として参戦したが、毛利隆元を饗応した直後に隆元が急死すると、元就の不信と憎悪を買い、殺害された。

 

文/楠戸義昭(くすど よしあき)

1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。