鎌倉時代の僧・道元をご存知だろうか。道元は禅の精神を広め、「只管打坐(しかんだざ)」を追求した曹洞宗の祖師である。道元は坐禅の行のみではなく、あらゆる日常の作法を重んじることを強調した。道元の数々のエピソードのなかから、「日々の繰り返しの大切さ」を読み解いていく。

「自由自在」の境地にいたる方法とは

 

 道元は正治2年(1200)、山城国(京都府)内大臣・久我通親(こがみちちか)という貴族の子に生まれた。しかし3歳にして父を、8歳にして母を亡くし、子どもながらこの世の無常を思い、仏道を志すようになったという。

 そして、14歳で比叡山にて出家得度する。ところが、仏教の教義を修学するうち、ある疑問に直面したという。それは、我々が等しく仏性(仏の本質)を具えた存在であるならば、悟りを求めて修行する意義はどこにあるのかということであった。このときすでに、「仏性」という概念と修行への疑念が兆していたわけである。

 しかし、比叡山の高僧らからは満足な回答は得られず、道元は建仁寺・明全(みょうぜん)の門に入る。そしてさらに真理を究めるべく、明全とともに海を渡り宋へと旅立つ。24歳のときだった。  そして2年を経て、天童山の如浄(にょじょう)禅師と出会う。「まのあたりに先師をみる、これ人にあふなり」(道元)。会うべき人に会うとはこういうことか、そう思わせる出会いだった。

 如浄の伝える禅は、「曹洞の黙照禅」(ただ黙々と坐することで仏性があらわれるとする禅の流派)だった。師と弟子は、たちまち肝胆相照らす関係となったという。

 参禅を重ねたある日、如浄が居眠りをする修行僧に「坐禅は常に身心脱落なるべし、惰眠をむさぼるな!」と喝を発した。そのとき道元は、不意にとらわれのない(身心脱落)の境地に至ったという。道元が大悟した瞬間であった。  人から教えられて悟るのではない。普段の生活の中で真理に生き、真理を行じる。そのさなか、ストンと腑に落ちる瞬間がある。道元はそのとき、あらゆる思い計らいを超えた自由自在な心境に至ったのだろう。おのれの内に仏の境地を見出した瞬間であった。

 大切なことは、その時々にやるべきことを虚心でやり抜くことだ──先の老典座の言葉の意味も、ここで深く了解できたにちがいない。 


日常のすべてが「修行」である

 道元は、みずからの禅思想の神髄を『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という大著にあらわす一方、禅寺における典座の心得を説く『典座教訓(てんぞきょうくん)』や、僧堂内の食事作法をまとめた『赴粥飯法(ふしょくはんぽう)』など、きわめて実際的で平易な書も残している。

 たとえば『典座教訓』では、食事の材料は「自分の眼のごとく心を込めて取り扱うようにせよ」といい、米をとぐときも調理のときも「他人に任せずみずから心をこめ」、「米に砂が混じっていないかをよく点検し」、「とぎ汁もむやみに捨ててはならない」という具合に諄々と説いている。

 また『赴粥飯法』では、食は心を養うものだとし、食堂への入り方から、食器の並べ方、食間の唱えごと、食卓の作法、食事の作法、食器のしまい方、食後の唱えごとまで、微に入り細をうがつ規則が書かれている。

 行住坐臥、日常生活のすべてが修行であると道元はいう。事細かな規則は、今この瞬間、見る対象、行うことのすべてをおろそかにせず、集中せよとの意味であろう。禅は「いま、ここ」が大切だという。いまなすべきことに専心する。虚心になって取り組む。それが修行である。

 当たり前のことのようだが、これが簡単なようで難しい。しかし何かを深く会得するには、我を忘れて没頭するときが必要であろう。我を忘れる、つまり自我の執着から離れ、目的と手段がひとつになったとき、真実が転がり込んでくるのだ。

 修行とは何か。道元は言った。

 修行のために坐禅があるのではなく、坐禅の姿がそのまま仏である。今日初めて坐った者の坐禅も達磨大師(禅宗の開祖とされる人物。大乗仏教の坐禅修行を広めたとされる)の坐禅も、全く等しいとまで説いた。悟るのを目的として坐るのではない。あくまでも本来の仏として坐るのだ。そうであるから、修行とその証である悟りは一体(修証一如)なのだ。そして、それ故に道元は、ただひたすらに坐禅をせよ(只管打坐)――と言ったのである。