「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

名門・池田家につきまとう死と陰謀の影

 

 徳川幕府傘下、西国随一の勢威を誇った池田家には、恐ろしい風説がある。初代姫路藩主・池田輝政(てるまさ)の死後、未亡人となった後室(後妻)の督姫(とくひめ)が、実の子の忠継(ただつぐ)に家を継がせようとして前妻の子・利隆(としたか)に毒を盛ろうとしたが、事情を察した忠継が毒を仕込まれた饅頭をみずから食べ、それを見た督姫もその饅頭を口にし、ふたりとも亡くなってしまった、というものだ(『吉備温故(きびおんこ)』他)。

 

この話は、死因は疱瘡(ほうそう)と関係者の書状にも書かれている事、岡山が事件の場所とされているにも関わらず、実際には督姫と忠継は京で疱瘡に伝染したらしい事、実際の忠継がこの時すでに別家して岡山28万石の主となっていた事を考えると、妄説と断じてしまっても良いだろう。ただ、この話が、面白半分に広まってもしかたがないだけの素地が、池田家にはあったのも事実だ。

 

 輝政は、織田信長の乳母の子・恒興(つねおき)の次男で、父と兄が天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで徳川家康に討たれたために池田家を継いだ。豊臣秀吉は輝政を大事にし、三河吉田15万2000石の大名に取り立てて家康の次女・督姫との結婚をとりもってやったりしたのだが、この婚姻のために関ヶ原合戦後天下をとった家康によって輝政は一躍姫路52万石の大大名に引き上げられ、「西国将軍」と呼ばれるまでになる。しかし、そんな得意の絶頂の慶長18年(1613)3月、輝政は急死してしまったのである。