幕末の日本人は世界をどのようにとらえていたのか。またそれが、世界の実情と比して、はたして本当に正しかったのか。
『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)のスペシャル講師としてもおなじみの河合敦先生に話を伺った。

 ■列強諸国の外圧による影響

 

 ペリーの来航にはじまる列強諸国の開国・通商要求という外圧を受け、日本人の世界観は変わらざるを得なくなった。
これより前、十九世紀になると、列強諸国の船が日本近海に現われ、上陸して食糧や水を要求したり住人といざこざを起こしたりする。そうしたなかで「異人を追い払え。国内に入れるな」という攘夷論が発生するのは当然だった。ただ、それを尊王論と結びつけて尊王攘夷論を構築したのは、水戸藩の会沢安(正志斎)であった。
 水戸藩は、第二代藩主徳川光圀が彰考館(歴史編纂所)をもうけ、『大日本史』と称する壮大な歴史書の編纂をはじめたが、方針として尊皇を柱にしたこともあり、尊王思想が藩士の間に深く浸透していた。
 文政七年(一八二四)、そんな水戸領内の大津浜に異国船(イギリス船)数隻が現われ、十二人の異国人が上陸してきた。彼らは藩の役人に「上陸したのは、病人に与える新鮮な野菜を補給するため」だと説明する。そこで藩はそれらを与えて退去させたが、現場に筆談役として立ち会った学者が会沢安だった。
 会沢は彰考館の学者だったが、「異人らは捕鯨を装い、本当は日本を侵略しようとしているのだ」と危機感を抱き、翌年、対処方法を記した『新論』を書き上げ、翌文政九年、師の藤田幽谷を通して藩主・徳川斉修に献上した。
 この『新論』のなかで、初めて尊王論と攘夷論を融合した尊王攘夷論が登場するのだ。
 会沢は『新論』の冒頭で「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世々宸極を御したまひて、終古易らず、固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく宇内に照臨し、皇化のおよぶ所、遠邇有ること無かるべし。而るに今西荒の蛮夷、経足の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履く、敢て上国を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや」(『新論・迪彝篇』塚本勝義校注 岩波文庫)と述べる。
 「神の国である日本は、太陽の出る所であり、気も根源が始まるところである。アマテラスの子孫達が代々変わらずに元首となり、万国を統治している。世界中に天皇の徳が及んでいる。ところが近年、西洋の異人たちが四海を船で乗り回し、諸国を蹂躙して他国を凌駕しようとしている。なんと驕っていることか」という意味だ。

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