第15回

道を歩くのは一人だけ

 

社会の中で生きる

 人間は、社会の中で生きている。よく「人に迷惑をかけない生き方をしよう」と叫ばれる。子供のときから、そう教育された人も多いだろう。逆に、他者に迷惑をかける人間は、悪い人、困った人、駄目な奴、というレッテルを貼られる。
 しかし、考えてみてほしい。生まれてくるときに、自力で誕生した人間はいない。子供のときだって、一人だけでは生きられない。ようするに、生まれて育ってきた時点で、誰もが社会に迷惑をかけているのである。だから、「迷惑をかけない」とは、「せめて大人になったら」という条件がつく言葉なのだ。
 大人になっても、もちろん周囲に迷惑をかけているだろう。気づかない人が多いと思うけれど、たとえば、警察に守ってもらっているし、電気や水道も使わせてもらえる。お金を払えば好きなものが買えるルールだって、自力で構築したわけではない。その恩恵に与(あずか)っているのである。病気になれば、周囲の人の手を借りることになるだろう。
 たとえば、よく「自給自足の生活」なんて呼ばれる田舎暮らしがあるけれど、あれは、ただ食料を自分で作っているというだけの話だ。自給自足だったら、衣料品も電気も水道も治安もすべて自給しなければならないのではないか。病気になったからといって薬を飲んだり、医者にかかるようでは、自給自足とはいえない。
 だから、本来「一人で生きる」ということは限りなく無理な話だ。しかし、それでも、否、そういったこともひっくるめて、自分の道を自由に歩きたい、という願望を誰もが持っているはずである。となれば、ここにはある程度の「折合い」というものが必要になるだろう。
 折合いとは、譲(ゆず)り合いみたいな意味だ。妥協といっても良い。理想のとおりには生きられない。それは、森林の中に道を通すのと同じで、どこに道を通せそうかと見定める眼力、あるいは思考力が必要になる。理想というのは、妥協によって部分的に可能になるものだ。この折合いによって現実へと導かれる。

絆という幻想

 そうはいっても、近頃の日本では、「絆」が必要以上に重視されすぎていて、なにか人間として必需のルールのように謳われている。これは、核家族になり、都会的になり、個人主義になった現代への反動で、一時的に傾倒していることのようにも見える。本来、これも自由のために折合いをつけていくべきものであって、絆を追い求めるような方向性ではないだろう、と僕は感じる。
 はっきりしていることは、自分の人生を歩むのは自分一人だけだ、ということ。生まれたときも一人、死ぬときも一人である。家族がいてもいなくても無関係。昔の王様だったら、家来が一緒に死んでくれたかもしれないが、そんなことをしてもらっても、王様は嬉しくもなんともない、というのが現代的な思想ではないか。
 僕は、自分の葬式も不要だし、墓もいらないと考えている。僕の両親は既に亡くなっているが、墓はない。どうして墓が必要なのか、僕にはわからないからだ。
 友達も欲しいと思ったことはない。仲間と一緒に酒を飲むような趣味もない。それでも、ときどき友人が訪ねてくる。親しい友人もいるけれど、礼儀正しく接している。ため口をきいたりしないし、また、甘えるようなこともない。
 これは、夫婦間でも同じである。僕は、若気の至りで結婚を一回だけした。そのときの奥様(あえて敬称)が、今も奥様のままで、結婚して三十四年になるが、未だ打ち解けていない。意見はまるで合わないし、もちろん趣味もまったく違う。なにかを一緒にすることは滅多にない。家の中でもほとんど会わないし、話をすることも稀である。しかし、重要なことは、お互いが自由であり、それを認め合うことだと考えている。相手が自由になるように、自分はできるだけ気をつけている。
 社会において、絆よりももっとずっと大切なのは、他者の自由をお互いに尊重することだ。

庭園の自然とともに

 五月下旬から、樹が葉を出して、僕の庭園は新緑の森林となる。地面には木漏れ日が落ち、しかもそれらの光が動いている。蠢(うごめ)いているといっても良いほどで、自然は生きているのだな、と感じられる。
 その下を僕の鉄道が走る。それに乗って、ぐるりと庭園内を巡ってくる。リスもいるし狐も見かける。とにかく多いのは鳥で、季節によってどんどん入れ替わっているようだ。庭を一周するのに十五分ほどかかり、この一周をほぼ毎日しているのだが、厭(あ)きるということはない。それは、道は一本でも、周囲は変化し、常に未知だからである。

庭園鉄道の列車は最大3人の乗客を運べる。しかし、客は滅多になく、いつも運転士(僕)一人で走っている。