「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

大大名に出世した直後の死 陰謀の首謀者は徳川家?

 

織田信長の遺臣のひとり池田恒興の次男・輝政は、秀吉・家康からも重用され、関ヶ原後には姫路52万石の大大名となった。だがその得意の絶頂にあって、輝政は急死してしまう。

「にわかに大中風(ちゅうふう)差し出で、無言」という症状だとの報告を受け、急遽中風の薬を送ったと幕府側の史料『駿府記』にあるが、同じ幕府側の史料『当代記』は中風としながらも「吐血した」と記録している。

中風とは脳内出血の事だから、消化管出血や結核の症状である吐血とは結びつかず、なんとも腑に落ちない。そんな不審を、当時の人々も感じたのだろう。徳川へなびいた事を憤慨した豊臣側による呪殺、あるいはかつて秀吉の居城だった姫路城を勝手に改修した祟りだという噂も流れたようだが、一方で豊臣恩顧の大名である輝政の死は大きな痛手だ、と考える理性に満ちた意見を唱える者も豊臣方にはいたらしい(『埋礼水』)。

輝政の死の直後、徳川幕府は利隆に家督を継がせるが、同時に忠継に利隆の領地から10万石を割いて与え、合計38万石の大名とした。それまでは姫路が岡山の倍近くの規模であったものが、ほぼ同規模となって並び立つ事となったのだ。大坂の陣を目前にして、幕府は池田家の軍事力を2等分にして、統制しやすくしたのだろう。そう考えると、輝政の死が謀殺だったとすれば、一番怪しいのは徳川幕府、という事になるのである。