「ニート」とは「NEET(Not in Employment,Education or Training)」を日本語読みしたもので、そのまま直訳すると「就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人」となります。内閣府が2015年6月5日に発表した「子ども・若者白書」には、同じ概念と考えられる「若者無業者」が約76万人おり、そのうち38万人が30歳から39歳であるという。現実問題として、一度「ニート」の状態に陥ると、そこからの脱却はなかなか難しいとの理由から、「高齢ニート」が生まれてきているようです。

「若者無業者」の中には「病気やケガをされた方」、「資格取得のための勉強をしている方」、「家族の介護・看護をおこなっている方」など、働きたくても働くことが出来ない方の割合が多い。しかし、その中で「希望する仕事があまりない」、「知識・能力に自信がない」、「特に理由はない」などの理由も共存しているようです。

禅の修業「托鉢」の意味

 ミャンマーにわたり現地の仏教の実践もされた著述・翻訳家の魚川祐司氏は、ご自身の著書『だから仏教は面白い!』(講談社)で大変インパクトのあることを述べられていました。

「現代風にわかりやすく、比喩的に言うとすれば」と前置きされ、お釈迦様は自分の弟子達に、「異性とは目も合わせないニートになれ!」と教えていたというのです。かなり極端な表現ですが、述べられたことに間違いはありません。

 一般的な意味での労働を拒絶し、何かを提供し、その見返りに報酬を受け取ることはしないのがお釈迦様の仏教であるのです。今日の日本の臨済宗でも托鉢という行(ぎょう)はその特色を残していて、修行僧が生きていくために必要な食料を信者の方からいただいております。その施しは「布施」と言われ、対価を求めぬ行いとして大切な修行の一つとされています。

 修行中の私自身も最初のうちはどうしても、対価を払わずに食べ物やそれを購入するためのお金を頂くことに大変な抵抗がありました。被災地や困っている方々への募金なら理解できます。そうではなく、自分たちの食べ物のために施していただく。それなら、労働してその対価で頂いた方が、よほど気持ちがすっきりするように思っていたのです。

 しかし、この「乞食(こつじき)」という行には、仏教の考え方でもっとも大事な「自分一人では生きていくことはできない。自分はたくさんのもののおかげで生かされている。」ということを、直接的に教えてくれました。

 同じように施す側も対価、見返りを求めません。人はとかく見返りを求めて行動してしまいます。何か自分にとって、得るものがない行為は無意味ではないかと。お釈迦様は、何かをしてもらったから支払うのではなく、社会への感謝としての「布施」という行いを大切にされたのです。

 では、信者の方から食べ物をいただけなくて餓死された僧侶はいたか? 答えは、正直にいうとわかりません。けれども、過去の話も聞いたこともないし、考えられないのです。それは、修行僧が仏道に邁進する姿を目の当たりにして、何か感じていただくものがあったからではないでしょうか。

 2500年前にインドで生まれた仏教は、中国に伝えられ「禅」という形で定着していきました。それまでの仏教は直接的な生産活動はしていなかったのですが、修行者が一カ所のお寺に大勢集まるようになると、「作務」という修行がはじまります。坐禅修行するかたわら、自ら畑を耕し、鍬をとり、斧を振るって、米を搗(つ)くという生活に変化していったのです。

一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日(いちじつ)食(く)らわず

 百丈懐海禅師という中国の高僧の言葉です。百丈禅師は、80歳を過ぎても作務を怠りません。弟子達は体調を気遣って、百丈禅師が作務をできないように、箒や鍬をかくしてしまいます。百丈禅師はやむなく作務をあきらめて部屋に帰ります。

『鍾馗』/白隠禅師画。鍾馗は、怨念と執着をすてて、社会の為に役立とうと決心した人。

 しかし、それ以後、食事をとりません。心配した弟子達は「和尚、お加減でも悪いのですか?」とお伺いをたてます。百丈禅師は答えます。「一日不作一日不食」と。

 この言葉は、「働かざる者食うべからず」の意味ではありません。働くことは食べるために行うものではなく、「作務(務めを作す)」なのです。修行僧にとって「作務」は、仏道の実践に他ならないのです。百丈禅師は一日働かなかったから食べなかったのではなく、一日仏道の実践をおろそかにしたから、食べられなかったのです。

 もちろん、「若者無業者」の方々におかれては、他者ではうかがい知れない理由があるのだと思います。それをとやかく言える立場でも、言うつもりもありません。ただ、自分一人では生きることができないのが、この現実社会です。私たちは、生きていく以上、何かを食べなくてはなりません。食べなければならない以上、どう「務めを作(な)す」べきか、この言葉と向き合っていただければ幸いです。