「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

ゴシップネタとなった浅野幸長の死

 

慶長18年(1613)9月1日、徳川幕府前将軍・徳川家康の住む駿府城に使者が駆け込んだ。「紀州浅野紀伊守儀、去る二十五日辰の刻(午前八時頃)死去候」。紀伊藩主・浅野幸長(よしなが)の死の報告である。幸長は長期療養中の身で、すでにこの直前に危篤の報は入っていたし、浅野家側の史料『浅野考譜』によれば自分の死期を悟った幸長は前もって弟の長晟(ながあきら)とともに家康・秀忠に挨拶し、「後継者は長晟」と了解を得ていたともいうから、徳川幕府内にそれほどの驚きは無かっただろう。いや、むしろ思惑通りの成り行き、とひそかな喜びが広がったかもしれない。

豊臣秀吉の正室・おねの妹の子として生まれた幸長は、文禄4年(1595)の関白秀次事件に巻き込まれたとき、赦免運動をしてくれた徳川家康と縁ができている。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で家康に属して戦った功で紀伊和歌山37万6000石の大大名となったがその13年後、数え38歳での死であった。

彼の死因について家康側の記録『当代記』は、「唐瘡煩い、もってのほか(重度の梅毒)」だったとしているが、京の公家・西桐院時慶(にしのとういん・ときよし)はその日記『時慶卿記』に「高台院(こうだいいん)(おね)と片桐且元(かつもと)(豊臣家の重臣)とが、東国で紀州の儀(幸長の死の原因)についていろいろと風評が立っていると話しあっていた」と記録している。