フランス人建築家、ル・コルビュジエが設計し、1959年に開館した、国立西洋美術館(東京都台東区)が、ユネスコ世界遺産に登録される公算が大きくなった。近年、「明治日本の産業革命遺産」や「富岡製糸場と絹産業遺産群」など、近代遺産の世界遺産への登録が相次いでいる。
 本記事では、あまり知られていないもうひとつの近代遺産を紹介する。

終戦後も掘り続けた日本軍の意地

支線のBラインと3室作られた10畳ほどの部屋

 北関東三県の歩兵連隊などを束ねる第十四師団は、栃木の県都・宇都宮にあった。明治40年(1907)司令部が設置され、明治末の宇都宮には歩兵第59連隊、歩兵第66連隊、野砲兵第20連隊、騎兵第18連隊、輜重兵大隊などが駐屯するようになった。

宇都宮の歩兵第59連隊長になった李垠(りぎん・イウン)(写真は歩兵中佐時代)

 大正8年(1919)にはシベリア出兵で派遣、後にペリリュー島で全滅する水戸の歩兵第2連隊が尼港《にこう》事件※1に遭遇する。
 また昭和10年(1935)には、大韓帝国最後の皇太子で時代に翻弄された李垠(りぎん・イウン)が歩兵第59連隊長になっている。その後、第十四師団は昭和15年(1940)に満州チチハルに移駐したため、宇都宮には第五一師団が編成された。

 敗色の濃くなった昭和20年になると本土決戦体制が整えられた。その一環で兵事事務を行う組織の宇都宮師管区司令部が、現在の国立病院機構栃木医療センターの場所に置かれた。
 この頃になると、すでに各地で空襲が激しくなり、内地の兵隊の多くは壕掘りに精を出すようになっていた。宇都宮でも師管区司令部を地下に疎開させるため、地下壕の工事が市街の八幡山で6月中旬に始まった。

 構築は工兵と歩兵約250名が携わって、3交代24時間の突貫工事でダイナマイトで砕きながら1日10数m掘り進んだ。だが終戦になっても完成には程遠く、一部未貫通の部分もあった。数日作業を中断したが「未完成をアメリカ軍に見られたら日本軍の名折れ」と再開され、すべての壕の貫通を待って作業が終わったという。

 こうして掘られた壕は通路だけで総延長721m。尾根に沿って約340mの主線壕が南北に走り、そこから東西に9本の支線壕が伸びていた。
 戦後、壕には5年ほどの間空襲で焼け出された30世帯ほどが住んでいた。彼らの退去後は大谷石で蓋をされ、21世紀に入って公開された。現在は危険なため閉鎖されている。

 似た規模の壕で見学できるものに、戦車製造のために掘られた同県烏山町の東京動力機械製造地下工場跡がある。3本の掘り抜きと各坑道を結ぶ5本の横坑で構成され、総延長600mのもの。昭和20年2月に稼働し、現在は酒蔵として使用されている。

※1 ロシアのニコラエフスクで発生した、赤軍による住民大量虐殺事件。日本人の居留や守備隊も犠牲になった。