「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

バタバタと死んでいった豊臣恩顧の大名たち

 

 豊臣家とゆかりの深い、大大名・浅野幸長は38歳の若さで死んだ。この死について、当時の公家の日記には「いろいろと風評が立っている」と書き残されている。

 加藤清正や池田輝政と、豊臣恩顧の大名が次々と亡くなった直後の事であるから、ゴシップネタとしては格好の対象だったし、他大名の家臣も書状で「幕府から派遣された曲直瀬道三(まなせ・どうさん)(当時名医とうたわれた人物)が幸長の治療をしてまもなく幸長が死んでしまったので、浅野家の家臣たちが家康に訴え、道三は叱責された」(『毛利氏四代実録』)と報告し、「彼の薬によって死んだわけではないのだろうが」と書き添えているぐらいだから、当時世間一般にひろく謀殺説が流れたらしい。

 秀吉の甥で「威があり、それ以上に徳があった」(彼を偲んで書かれた文章「浅野幸長画像賛」の一部)器量人の幸長に対して、豊臣攻めに臨もうとする家康は、本心では信用していなかった。このあと徳川幕府は亡き幸長の娘を徳川義直(家康九男、尾張藩主)の正室に迎えているが、それでも大坂夏の陣が始まると「浅野家が裏切った!」という流言を真に受けて家康も危うく真田幸村に討たれかけるくらいの大潰乱を起こしている。幕府による謀殺かどうかは別として、この様子を見た幸長は天上から快哉を叫んでいたのではないだろうか。戦後、徳川幕府は家康の三女・振姫を長晟に輿入れさせ、そのうえ紀伊から安芸へと遠ざけている。