「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

師の利休と同じく自害の命を受けた稀代の茶人

 

 現在大ヒット中の漫画「へうげもの」の主人公、古田織部正重然(おりべ・しげなり)、通称古田織部。天文13年(1544)に美濃で生まれ、織田信長の使番、そして行政官僚として働き、天正10年(1582)本能寺の変で信長が死ぬと羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に仕え、同じ頃千利休の弟子となった。このあと、織部は秀吉から3万5000石を与えられ大名の座につらなる身分となっている。秀吉死後は隠居して息子の重広に家督を譲り、3000石の隠居料を茶事三昧に宛てていたのだが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では徳川家康に味方し、7000石を加増されてふたたび1万石の大名に返り咲いた。

 利休第一の弟子といわれ、「一世の師匠」とまで称えられた織部だったが、徳川と豊臣の関係が決裂すると、その立場は微妙なものとなる。元和元年(1 6 15)大坂夏の陣の直前に捕らえられた重然父子は、大坂城が徳川幕府軍により攻め落とされたひと月後の6月11日に切腹を命じられ、伏見の屋敷で自害して果てた。その理由については、徳川軍の作戦を矢文で大坂城内に知らせた(『続武家閑談(かんだん)』)とか、家康・秀忠が京から出撃した後を狙って天皇を人質にとり、二条城を奪って京を焼き払おうとした(『藩翰譜』)ともいうが、はっきりとはしない。