古代中国の史書「魏志倭人伝」に記載されている「卑弥呼」という人物は、『古事記』、『日本書紀』に書かれている誰にあたるのか? 江戸時代から議論が続く古代史最大の謎である。その難問を、戦後考古学の最前線に立ち続けた大塚初重氏が、最新の研究データをもとに解明する――。

 

『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』(国立国会図書館蔵)より、神功皇后。

■日本書紀の編者は卑弥呼と神功皇后を同一視した

 『古事記』、『日本書紀』には「邪馬台国」とか「卑弥呼」という名称には触れていない。しかし『日本書紀』の「註」には倭女王と魏王朝との3回におよぶ外交的な交流を記している。これは、『日本書紀』の編者が、倭女王、卑弥呼と神功(じんぐう)皇后とを同一視していたことを示している。

 江戸時代の学者、松下見林(けんりん)(1637~1702)の「異称日本伝」の中でも神功皇后の気長足姐尊(おきながたらしひめのみこと)(『日本書紀』の表記)という名前が訛って卑弥呼と称したのであろうと言っている。また新井白石(はくせき)(1657~1725)は『古史通或問(こしつうわくもん)』の中で卑弥呼は「日美子(ひみこ)」であるとし、神功皇后であるとした。

写真を拡大 『古事記』、『日本書紀』によると、神功皇后は開化天皇の5代末裔、倭姫命は開化天皇の3代末裔となっている。

 一方、『古事記伝』を著した本居宣長(もとおりのりなが)(1730~1801)は新井白石とは異なり『魏志』などの中国文献についてはかなり批判的な立場をとっていたが、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(『古事記』の表記)=神功皇后の時代が魏の景初(けいしょ)3年や正始(せいし)4年という年代に合うことを認めていた。しかし本居宣長は、九州地方、とくに筑紫(つくし)あたりの熊襲(くまそ)(大和王権に抵抗した人々)が神功皇后の名を騙(かた)ったものと考えた。

 明治以降の卑弥呼論は那珂通世(なかみちよ)(1851~1908)による明治11年(1878)の「上古年代考」以来の諸論文によって決着。卑弥呼と神功皇后の時代には100余年の差があって、卑弥呼は神功皇后にあらずと結論づけた。

 明治43年(1910)に東京帝国大学の白鳥庫吉(くらきち)は『倭女王卑弥呼考』を、京都帝国大学の内藤湖南(虎次郎)は『卑弥呼考』を発表し、邪馬台国研究の一大画期をつくり出した。

 この両者は、朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)より邪馬台国に至る距離、日数の表示を批判、検討し、その結果、白鳥は邪馬台国九州説を、内藤は大和説を主張したのであった。卑弥呼=神功皇后説は消え去る運命であった。

女性であること、神のお告げを聞く力を持っていたことは卑弥呼のイメージと重なり合う。しかし、神功皇后と卑弥呼の活躍していたと思われる年代が異なるという事実は大きい。


《ここまで分かった! 「卑弥呼の正体」第3回へつづく》