・オバマ広島訪問にみる、耐え難い違和感 

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 オバマが広島を訪問した。オバマは広島に向かう前、在日米軍岩国基地で米兵に向け演説をし、そこから数機の軍用ヘリ(およびオスプレイ)を伴って広島市のヘリポートに到着する。映像を見ていて耐え難い違和感があった。

 米軍基地は日本ではなくて法的にはアメリカの領土と同等であり治外法権であるとまざまざと見せつけられた思いである。仮にドイツの首相やカナダの首相が広島に行くとき、当然だが米軍基地を経由しない。この国がアメリカに隷属している動かしがたい物理的事実に、改めて愕然とする。

 さて、オバマ広島訪問が終始中継されていた。オバマは当初予定にはなかったとされる原爆資料館へ真っ先に向かった。滞在は10分ほどであったが、被爆の実相を少しでも感じたのではないか。さらに被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の坪井直理事長をはじめ被爆者との直接の会話を行った。

 オバマは献花の際、わずかだが黙祷の表情を見せた。原爆投下というアメリカの加害性を痛感して、人間として胸が痛まないわけがない。ただ安倍総理が献花の前に頭を下げたのに対し、オバマは頭を下げることはなく、かたくなにアメリカの原爆投下の責任を言外に否定しつづける傲岸な姿勢を感じなくもない。

 ともあれ、オバマが広島に来たこと自体は一定評価できよう。が、蓋をあけてみれば、オバマの「所感」なる演説は、予想された通りのグダグダなものであった。

 

・広島、長崎原爆は「人類の過ち」ではない

 まずオバマは、広島・長崎原爆を「空から死が降ってきて」と形容して、まるで天変地異か何かのように表現してのっけからアメリカの原爆投下責任、加害者性を希釈化した。オバマの短い演説の中では常に「人類」「人類の」という曖昧な表現を貫徹した。

 広島原爆の悲惨性には触れつつも、「きのこ雲の中に人類の矛盾」という言い方をした。あるいは、「(原爆を含んだ戦争全般を)人類の過ちである」とし、徹底的に原爆投下責任への言及を避けた。きのこ雲の中で繰り広げられた凄惨な歴史事実は人類の矛盾ではない。アメリカの戦争犯罪であり、大きな矛盾である。また、当然、広島・長崎原爆は人類の過ちではなくアメリカの過ちである。

 真珠湾攻撃や満州事変は人類の過ちなのだろうか?いや違う、日本軍と日本の国策の過ちである。そうであるならば、原爆投下は人類の過ちではなくアメリカ軍とアメリカの国策の過ちである。

 だからこそオリバー・ストーン監督ら「まっとうな」米リベラル知識人らは、オバマに対して原爆被爆者に謝罪を要求する書簡を提出(6月23日報道)したのである。こんな当たり前のことをわざわざ指摘しなければならないのはなぜだ?日本が敗戦国であり、現在でもアメリカとの圧倒的力関係が存在するから(それをあえて”属国”などという陳腐なフレーズで表現したくはないが)、その一点である。

 極めつけは、微妙なニュアンスからうかがえる原爆投下の加害者性の相対化である。広島原爆で死亡したアメリカ軍捕虜の事例を引き合いに出し、「アメリカの犠牲も日本の犠牲も同じ意味を持つ」と続ける。いや全然同じではない。

 被爆当時広島にいたのは墜落・撃墜されたB-29の搭乗員たちである。アメリカの捕虜は皆正規の軍人である。広島で焼き殺されたのは無辜の女や乳児たち、未来ある少年少女たち民間人であった。どこが同じなのか?詭弁もいい加減にするべきである。

 さらにオバマは、「広島だけが(戦争被害の)特別な場所ではない」という表現も使った。巧妙な嘘である。原爆は特別な兵器と認識されたからこそ、エノラ・ゲイ(広島)とボックス・カー(長崎)は、レーダー爆撃ができたにもかかわらず目視にこだわって原爆を投下している。

 500キロ爆弾が住宅地に落ちると大変なことになるが、急性放射線障害は起こらない。原爆被害はあまりにも特殊であり、であるがゆえに特別に残忍な非人道兵器であることなど自明だ。

 ただ、事前に報道されていた元米兵捕虜の同行が中止されたことについては、沖縄県での米軍属による殺人事件もあり、さすがに配慮したものと思われる。しかしこれを考えてもわかるように、アメリカ政府の基本的考えは、あくまで「原爆投下の責任を希釈化し、日本の戦争犯罪との相殺(真珠湾やバターン死の行進など。よってむしろ日本の戦争犯罪のほうが重い)」することを反復的に強調することであることは間違いはない。

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