第16回 
人間は自然の一部


海千山千

 竜はもともとは蛇で、海に千年、山に千年棲んだのちに竜になるらしい。経験豊かで強(したた)かな老人を海千山千などと表現するのはこのためだが、人間の場合は同じ土地に数十年いるのがせいぜいだ。
 僕は、海か山かどちらか、といえば、断然山が好きだ。海の近くには住みたくないし、海を見にいきたいとも思わない。海の風も嫌いだし、海で獲れるものも、あまり好まない。それで、こんな山奥に住むことになった。
 中学生のときはワンゲル部だった。ワンゲルは山とは限らないけれど、でもだいたい山道を歩く。登山部よりは少しだけソフトな感じ。山に登ると本当に気持ちが良く、これは登った人にしかわからない感覚だろう。ただ、山道というのは、山の頂上へ向ってほぼ一本道で、多くの場合、行き着いたあとには同じ道を引き返さなくてはいけない。いささか虚しい行為だけれど、それでも、多くの人たちが山登りに魅了されていて、危険を顧みず臨む人だって沢山いるのだから、よほどのことなのだろう、と思ってほしい。
 かつて、イギリスの女性登山家が、子供と夫を残してエベレストに挑み、そこで死亡したことがあった。きっと、今だったら育児放棄で炎上するところだ。しかし、これほど自分の子供に大きな教育をした母親はいない、と僕は感じた。人間の尊厳というのは、本来そういうものであって、他の動物には真似ができない行為といえる。
 何が言いたいのかというと、千年を生きることは無理だが、それでも人間は長生きをするのだから、その人生の中で、自分の道を見つけ、そこへ挑む姿こそ尊い、ということ。他者の顔色を窺ってばかりでは、道は見つからない。また、人が歩かなければ、道は草木に覆われ、たちまち消えてしまうのである。

健康のために生きるのか?

 若い人は、人生を模索している。あれもこれもと興味を持ち、夢を描く。無理っぽく思えても、好きな方向へ近づきたい、という憧れも持っている。それは素晴らしいことだ。
 一方で、最近は年寄りが増えてきて、昔では考えられないような長生きをする。そういう人たちの多くが「健康」が趣味だという。仕事をリタイアして時間もある。この時間を健康のために費やしている。僕にはこれが、どこか不思議な光景に見えてしまう。
 健康というのは、大事なことではあるけれど、それが生きる目的になるのだろうか? それでは、生きる目的は生きることだ、という堂々巡りにならないか。たとえば、自動車の整備をして、毎日エンジンを回して確かめているみたいだ。毎日道具を磨いてピカピカにして飾っているようなものだ。たしかに、「趣味的」ではあるけれど、かなり倒錯っぽい(倒錯も悪くはないが)。
 そうではなく、車や道具は、それを使って何をするのか、が目的なのである。人間も、健康に支えられて何を成すのか、が人生である。僕は少なくともそう考えているので、健康だというだけでは、大事なものが足りないのでは、と感じる。
 健康を考えるとき、まず思い知らされるのは、人間は自然の中にあるということ。自然の一部だといっても良い。身の回りにあるものは、ほとんど人工的なものだ。衣料も住宅も都市も、またTVも電話も鉄道も、すべて人間が作ったものなのに、唯一人間の躰だけが例外なのである。つまり、人間は人工物の中に存在する例外的な自然物だ。
 人生は、人が考えるとおりにはいかない。それは、大いに不自由なことだけれど、その原因は、自分の肉体という自然に起因している。したがって、思いどおりに生きたかったら、第一に考えるべきは、この気ままな自然物をよく観察し、その特徴、傾向、生態を見極めることだ。いくら薬やサプリメントでこれを飼い馴らしたところで、人工物にはならない。

庭園の自然とともに

 六月の初旬頃には、樹の葉が出揃う。十月には散ってしまうので、森林が生い茂っている期間は短い。それでも、夏が近づくと、素直にわくわくする。明るくて爽やかだ。
 日本にいたときには、夏は鬱陶(うっとう)しい季節だったけれど、ここではそうではない。気持ちが良く、ゆったりと時間が流れ、風も気持ちが良いし、雨が降れば植物が喜ぶのを想像して、自分まで嬉しくなる。
 僕は都会で育ったから、ずっと田舎なんて不便なだけだと思い込んでいた。しかし、今になって思うのは、どうして便利でなければならないの?という疑問である。
 蒔いた種は必ず芽を出す。こんな小さな奇跡が、自然を作っている。

庭園内の森林。現在ここで線路工事に汗を流している(実際には涼しいので汗は出ないけれど)。