古代中国の史書「魏志倭人伝」に記載されている「卑弥呼」という人物は、『古事記』、『日本書紀』に書かれている誰にあたるのか? 江戸時代から議論が続く古代史最大の謎である。その難問を、戦後考古学の最前線に立ち続けた大塚初重氏が最新の研究データをもとに解明する――。
 


■倭姫命と卑弥呼は巫女としての性格に共通性がある

 倭姫命(やまとひめのみこと)は『古事記』、『日本書紀』に記される第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女で皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が母親である。倭姫命は天照大神(あまてらすおおみかみ)に長く仕えた巫女(みこ)のような存在であり、『日本書紀』によると「垂仁天皇25年春3月、天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して、倭姫命に託(つ)けた」と記している。倭姫命は天照大神鎮座の場所を探し宇陀篠幡(うだのさきはた)へ行き、さらに近江(おうみ)・美濃(みの)をめぐって伊勢国へ至り、斎宮(いはいのみや)を五十鈴川(いすずがわ)のほとりに立て磯宮(いそのみや)と称した、ここが天照大神が初めて天から降りた場所であった。

 倭姫命はこの斎宮で長く天照大神に仕える祭祀者として過したのであった。
 景行(けいこう)天皇40年7月、二人の皇子の弟小碓命(おうすのみこと)、すなわち日本武尊(やまとたけるのみこと)は東国の蝦夷(えぞ)鎮定のための2度目の征討を命じられ、いさぎよく冬10月2日に出発した。

 途中、日本武尊は伊勢の斎宮に立ち寄って天照大神に拝礼をし、倭姫命に別れの挨拶をした際に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を拝受したのだった。日本武尊はその後、駿する河がで大鹿の狩猟中に賊の火攻めに遭い、天叢雲剣で草をなぎ払い難を逃れた。これが「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の名のおこりであり、その地を焼津(やいづ)といった。

 この著名な草薙剣には、伊勢神宮にいた倭姫命の呪術力が加わったのかも知れない。長い間天照大神に仕え、祭祀に一生を捧げる巫女としての生活を続けた人物であった倭姫命。そのイメージは「鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆(しゅう)を惑(まど)わす。年已(すで)に長大なるも夫婿(ふせい)無し」などと倭人伝に表現された卑弥呼像と重なりあう。神に仕える巫女的性格の倭姫命と卑弥呼とは、性格的に共通するものがあったと見られたのであろう。

倭姫命は開化天皇の3代末裔。

 内藤湖南が卑弥呼を倭姫命と考えた理由は、斎宮における倭姫命の役割と卑弥呼の性格と共通点があること、年代上両者が接近していると考えてのことだった。 しかし系図の通り、倭姫命は神功皇后の約2代ほど前にすぎない。つまり卑弥呼と倭姫命の年代には100年ほどの差があって、関連性は認められないと考えざるをえない。すなわち、卑弥呼と倭姫命と同一視することは不可能なことと思われる。

 

倭姫命には、政治や軍事の実験を持ったという記録はなく、2人が存在した年代も異なっている。

 

 

 

 

 

 

 

《ここまで分かった!「卑弥呼の正体」 第4回へつづく》