「生きるか、死ぬか」謀殺・暗殺もまた、ひとつの戦略であった戦国時代に、
多くの戦さを生き抜きながらも突然死・自刃・病死した武将たち。
にわかには信じられないその不審な死の謎を徹底検証する。
 

破壊の芸術が体制破壊に通じると警戒された?

「へひょううげげもの」とは、かつて織部が催した茶会で用いられた瀬戸茶碗が、「歪(ひずみ)候なり。へうげものなり」と『宗湛日記』に記録されているように、織部好みの「ゆがんだ」茶碗を指したものだ。

彼が茶道の師匠とした千利休は、織部の独自性を追求する姿勢を高く評価し、次代の茶道のリーダーと目していた。しかし、「ゆがみ」と、茶碗を十文字に割って再び接ついだ大井戸茶碗「銘須弥(しゅみ)」(三井文庫蔵)や、中国の墨跡をふたつに切った「流れ圜悟(えんご)」(東京国立博物館蔵)のような破壊による独創は、支配者の警戒を招く。

「彼は世の宝を損なう人だ。今残っている名物は、神のご加護があって残っているものなのに、自分の目を楽しませるためにそれを破壊するなど、ろくな死に方はしないだろう」と大河内久綱(ひさつな)(のちの老中・松平信綱(のぶつな)の父)からも批判され(『老談一言記』)既存の芸術を破壊して接ぎ直すように、せっかく固まった徳川の天下を打倒する危険思想の持ち主だ、と警戒され、濡れ衣を着せられて謀殺されたと考えた方が自然かも知れない。

自害の命を受けた織部は一切の弁明をしなかったと伝えられるが、幕府が自分を邪魔者とする以上、何を申し開いてもムダだ、と達観していたのであろう。