米指揮官カールトン・H・ライト少将は着任して2日目。日本水雷戦艦出撃の情報をえて、寄せ集めの巡洋艦部隊をひきいてガダルカナル沖に出撃してきたのだ。ルンガ河沖を単縦陣となって東側から進入。レーダー探知で、西側から進攻してくる日本艦隊をキャッチ。だが、不慣れな指揮官は魚雷攻撃を命じるのに4分間、ためらった。敵の目標を確認するまでに慎重な判断を下そうと、決断をおくらせたのだ。

 時すでに遅し。田中少将の駆逐艦6隻は、すでに全艦20本の「酸素魚雷」を暗黒の海面にはなっていたのである。わずか数分間の決断の差が、勝敗の差を分けたのだ。

 米海軍史家サミュエル・F・モリソン博士が「不屈の闘士タナカ」と敵国の指揮官を賞めそやしているにもかかわらず、日本海軍部内ではその殊勲をまったく評価せず、「我が海軍の伝統を破るもの」(注、公刊戦史の記述)として最悪の指揮官ランクづけなのだ。

 その理由は、大要2つ。まず司令駆逐艦長波が第2水雷戦隊の先頭に立たず、隊列の中先に位置していたこと。その2は、食糧輸送の大切な任務がありながら、その作業を中断して戦闘行動を優先したことである。そして旗艦長波は魚雷を一斉射したあと、さっさと反転引き揚げてしまったのだ。

 こうした田中司令官の行動は、日本海軍の伝統「指揮官先頭」の精神にそむき、糧食輸送の任務を放棄したことはガ島守備の将兵をさらに飢餓の状況に追いこむものである、と指弾された。だがこれは、上級司令部の在ラバウル第8艦隊幕僚たちの総意ではなく、長官三川軍一中将の意向が陰に強く働いていたといわざるをえない。