大陸への最前線基地・佐世保

佐世保市平瀬・立神地区の赤レンガ倉庫群

 明治22年7月、佐世保鎮守府開庁。そして鎮守府の開庁とともに造船部(後に佐世保海軍工廠)もつくられた。
 初代の司令長官は、日本造船の父とも呼ばれ、若き日に長崎海軍伝習所で航海術を学んだこともある赤松則良。以降、歴代の長官のうち、主だった提督を挙げると井上良馨《よしか》、東郷平八郎、瓜生外吉《うりゅうそときち》、出羽重遠《でわしげとお》、島村速雄《はやお》、伏見宮博恭王《ふしみのみやひろやすおう》、米内光政、南雲忠一などがいる。

 佐世保鎮守府は大陸にも近いことから、艦艇建造や教育・訓練といったことより実戦における艦船修理、補給能力の充実が図られた。そのため物資の備蓄の多さが佐世保鎮守府の特徴となり、後には対馬や外地の要港部をも隷下に置き、大陸への最前線の基地として重要な役割を担うこととなった。
 その面影は米海軍佐世保基地内の平瀬地区と、これに隣接する海自内の立神地区に現存する20棟近くの煉瓦倉庫に見ることができる。これらは前畑地区に残る9棟の倉庫群とともに、佐世保鎮守府の担った役割を伝える歴史の証人として、きわめて貴重である。 

 海軍工廠は、戦後は佐世保重工業に引き継がれ、大正2年(1913)に完成した250トンクレーンがいまも現役で稼働している。

特攻兵器の製造拠点となったまち

外壁のみが残されている魚雷調整場

 佐世保海軍工廠の分工場が川棚に設置されたのは、昭和17年。これにより帝国海軍の町・佐世保のほど近くありながら、大村湾を望む静かな町だった川棚の景色は激変した。

 海岸が埋め立てられ、翌年には川棚海軍工廠として独立、九一式系の航空魚雷を中心に各種魚雷を製造、戦争末期には木造の小型特攻艇である震洋なども製造された。
 完成した魚雷は、団平船にのせて試験場に運ばれ検査、合格した魚雷をまた団平船に積んで佐世保に運んだ。試験場は水深の深い場所に設けられ、沖に向けて発射して精度を試験した。

 もともと工廠ができるまでは小さな町だった川棚には、九州各地から学徒動員の女学生らが集められ、働いた。そして彼女たちを引率した教員のなかには児童文学者の椋鳩十もいた。
 昭和19年(1944)には横須賀から臨時魚雷艇訓練所が移され、川棚魚雷艇訓練所が置かれた。震洋特別攻撃隊の要員を含む数千名の若者が、特攻隊員としての訓練に明け暮れた。その記憶は「特攻殉国の碑」に見ることができる。
 米軍による空襲を免れた工廠は戦後工業団地に転換され、町を一望できる城山公園は、やがて「工廠の見える丘公園」と呼ばれるようになった。
魚雷発射試験場は放置され、釣り人以外訪れる者は少ない。