いままさに「角栄ブーム」が巻き起こっている。庶民派宰相として登場した田中角栄は日本の政治、そして自民党の歴史の中でどのように位置づけられているのか。『変貌する自民党の正体』(ベスト新書)を上梓。自民党政治の裏の裏まで知り尽くしたジャーナリスト・田原総一朗に話を聞いた。

 ■民主主義の申し子

「田中さんは敗戦による民主主義の申し子のような政治家だ。民主主義、敗戦後の混乱がなければ生まれなかった」
 田中政治を継承したと言われる竹下登が首相時代、田中角栄という人物について尋ねたところ、こう答えた。

写真撮影:永井浩

 佐藤栄作の後継者として首相・自民党総裁に登り詰めた田中角栄は1918年5月4日、新潟県刈羽郡西山町二田村(現在の柏崎市)に生まれた。父親の角次は牛馬の売買仲介を営み、北海道で牧場を持とうとしたり競馬馬を育てたりと意欲にあふれた人物であったが、失敗も多く、田中家の生活は楽ではなかったようだ。
 田中は尋常高等小学校を卒業後に上京した。丁稚奉公のような仕事をしながら中央工学校を卒業すると、東京・新宿区飯田橋に田中土建工業を設立した。
ところが、田中は46年4月に行なわれた戦後第1回の衆議院議員選挙に出馬している。当時27歳の田中は田中土建工業の社長で、今風に言えば青年実業家だった。その田中が政治の世界に頭を突っ込んだのはなぜか。
 そこには竹下の指摘通り、戦後の混乱期ならではの事情があった。

 田中は理研コンツェルンの総帥である大河内正敏に気に入られて、戦争末期に理研の工場のひとつを朝鮮の大田に移設する工事を全面的に請け負い、巨額の金を手にしていた。
 そのことを知ったせいか、田中土建工業の顧問をしていた政治家の大麻唯男が田中に「300万円の政治資金を出してくれないか」と要請して来た。今で言うと18億円にも上る巨額の金であるが、田中は大麻の頼みを快く了承したのだった。
 さらに、大麻は田中自身の衆議院選への出馬を強く求めた。
 同年1月にはGHQによる公職追放が行なわれ、戦時中に枢要なポストにあった政財官界の有力者たちが追放された。大麻が所属していた進歩党の追放者は、実に274人中260人に上り、大麻も追放されてしまった。
進歩党の解体を防ぐためには、ひとりでも多くの国会議員が必要だった。そこで、大麻は田中に白羽の矢を立てたのである。
 田中は『私の履歴書』で、こう記している。
「私は代議士になる気はなかったので一度はことわったが、(大麻から)二回ほど重ねて話があったので、そのころ鹿島組を辞めて私の土建会社の監査役をしていた塚田十一郎くん(前新潟県知事)に口をかけてみたが、彼もまた頭を横に振ってだめであった。 中略 私はしまいに『いくらくらい金が必要ですか』と聞いたら(大麻は)『十五万円出して、黙って一ヵ月間おみこしに乗っていなさい。きっと当選するよ』。私はこの一言に迷った結果、進歩党公認候補として衆議院総選挙に立候補の冒険をあえてするはめになるのである」
 まさに竹下の指摘通り、戦後の混乱なくしては政治家・田中角栄は生まれなかったのである。

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