織田信長肖像画(写真提供/アフロ)

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

元々清洲城(きよすじょう)は、応永12年(1405)に、当時尾張・遠江・越前守護であり、管領(かんれい)であった斯波義重(しば よししげ)によって築城されたのに始まる。

はじめは、尾張守護所の別邸として建てられていたものが、文明8年(1476)に守護代織田家の内紛により下津城(おりづじょう)が焼失。文明10年(1478)に守護所が清洲に移転したために、清洲が後に尾張国の中心地となっていた。

守護の斯波氏の力が衰えると、守護代として事実上尾張下四郡を支配し、織田家当主であった織田信友が実権をにぎり清洲城の城主となった。 

父信秀の死後、その跡を継いだ信長は、混乱する尾張の情勢を迅速に見抜き、弘治元年(1555)4月、信長の弟信行を支持していた信友に対し、叔父守山(もりやま)城主の信光と謀り、腹を切らせて城を乗っ取った。これにより織田本家は滅びた。 

そして、信長は那古野城(なごやじょう)から清洲城へ本拠を移したのである。その後、この清洲城を拠点に尾張の統一を進める。まず、兄の信広を服属させた。しかし、弘治2年(1556)4月、斎藤道三が嫡男義龍との戦に敗れて死去したのを契機に、重臣の林通勝、林秀貞、柴田勝家が信長を廃して弟信行を擁立しようとした。

これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛が味方し、両陣は清洲城と那古野城をそれぞれ拠点とし対峙した。(続く)

 

●清洲城データ

城の種類/平城
所在地/愛知県清須市一場
築城年/応永12年(1405)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。