織田信長肖像画(写真提供/アフロ)

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

弘治2年(1556)8月の稲生(いのう)の戦いで柴田勝家が敗れ、次いで林通具(みちとも)が討死。末盛城に籠もった信行を包囲するが、生母の土田(どた)御前の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々解放された。

この機に乗じ兄信広も斎藤義龍と組んで清洲城を攻略しようとしたが未遂に終わる。結果、信広は信長に降伏。弘治3年(1557)11月、信長に寝返った柴田勝家の手引きにより、信長は病と称し信行を清洲城に誘い出して北櫓天主次の間で殺害した。

さらに、信長は妹婿であった犬山城主信清とともに尾張上四郡の守護代であった信賢(のぶかた)を、永禄元年(1558)に浮野(うきの)の戦いで破り、永禄2年(1559)、岩倉城も包囲する。籠城戦ののちに信賢は降伏、追放となる。2月には京に上洛。これにより清洲城を拠点とした信長は尾張の統一をなしえた。 

しかし、永禄3年(1560)5月、今川義元が尾張国へ侵攻して来た。信長はこれを奇跡ともいえる形で急襲し桶狭間(おけはざま)で破った。永禄4年(1561)に斎藤義龍が急死。斎藤龍興(たつおき)が跡を継ぐと分裂が始まった。信長は美濃を攻める決意を固める。そのために、桶狭間以後今川氏の支配から独立した徳川家康と、永禄5年(1562)清洲で同盟を結んだ。そして、永禄6年(1563)斎藤氏との戦に備え平城(ひらじろ・平地に築かれた城)の清洲城から平山城(ひらやまじろ・小高い丘や丘陵などに建てられた城)の小牧山城(こまきやまじょう)に城を移すこととしたのである。(続く)

 

●清洲城データ

城の種類/平城
所在地/愛知県清須市一場
築城年/応永12年(1405)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。