古代中国の史書「魏志倭人伝」に記載されている「卑弥呼」という人物は、『古事記』、『日本書紀』に書かれている誰にあたるのか? 江戸時代から議論が続く古代史最大の謎である。その難問を、戦後考古学の最前線に立ち続けた大塚初重氏が、最新の研究データをもとに解明する――。
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■古代の日中外交で活躍した卑弥呼の記載が『記紀』にない謎

 中国の史書である『魏志』東夷伝倭人の条に登場する卑弥呼は実名ではなく、恐らく称号であろう。倭の女王に共立されたのが西暦180年代後半期と推測され、魏の正始8年(247)頃に死去しているから、2世紀後半から3世紀中頃に活躍していた人物であろう。

 これほど2、3世紀の古代東アジアの中で、日中外交で活躍していた倭女王卑弥呼のことが、『古事記』、『日本書紀』の本文中に全く触れられていないとはまことに不思議なことである。例外として前述の通り、『日本書紀』の編者が『魏志倭人伝』の存在を知って、年代の合う神功皇后紀に「註」として引用しただけであった。したがって江戸時代から現代まで卑弥呼は神功皇后か、垂仁天皇の後宮、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の第四子の倭姫命(やまとひめのみこと)とする考え方が提起されてきたが、無理な結論といわねばならない。

 大正年代に続けられた邪馬台国論や卑弥呼論争は文献史料が主体であったが、一部に考古学資料に基づいた論調が現われていた。すでに中国古鏡とか前方後円墳の問題を取りあげて、東京帝室博物館の高橋健自(けんじ)や京都帝国大学の梅原末治(うめはらすえじ)らによって論陣が張られていたが、相変らず邪馬台国の九州・大和存在説の応酬が中心テーマであった。

 しかし、笠井新也は考古学雑誌上で邪馬台国大和説に立って熊襲(くまそ)の女酋説を否定し、「大和朝廷に関係ある婦人であるべき」として倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)こそ卑弥呼であるとした。

 笠井は那珂通世(なかみちよ)の年代観によって、古事記による崇神(すじん)天皇の崩年(ほうねん)168歳(書紀では120歳)が、258年で3世紀中頃となり、卑弥呼の死が魏(ぎ)の正始8年(247)頃であって年代差はわずか10年ほどしかないので、崇神天皇の時代と卑弥呼の時代はほぼ合致すると説明。そして倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑(おば)でもあり、「姫命」の語は卑弥呼の名前とも共通しているというものであった。また倭迹迹日百襲姫命の人物像・性格が『日本書紀』にも記されているように、神憑かりして巫女的な行動を示す点からも、彼女が卑弥呼であるとするものであった。

 倭迹迹日百襲姫命は大物主(おおものぬし)神と結婚したが、神は昼は現れず夜だけ出現したという。約束通り翌朝、姫命の櫛笥(くしげ)に入っている大物主神を見ると美しい小蛇になっていたのに驚いた姫命が、急居(突然座ること)したので、箸が陰部に突き刺さって亡くなってしまった。遺骸は大市(おおいち)(奈良県桜井市)に埋葬し、その頃の人びとは「箸墓(はしのみはか)」といったという。崇神紀10年9月条には「昼は人が作り、夜は神が作り、大坂山(二上山北側の山)の石を運ぶのに、人びとが並んで山から墓まで手渡しで運んだ」と記されている。

『魏志倭人伝』には卑弥呼が死去したので「大作冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と記されている。魏の時代の一歩は四尺七寸四分であるから、前方後円形の箸墓の後円部径150mと合致するという見解がある。箸墓古墳は墳丘長約280mを測り、宮内庁陵墓要覧によれば「第七代 孝霊(こうれい)天皇皇女 倭迹迹日百襲姫命大市墓 奈良県桜井市大字箸中」と記されている。

 さてこの箸墓(箸中山)古墳が卑弥呼の墓だとする見解が最近強調されつつあるが、考古学的観点からは確実なことは言えない。実証できないからである。

 1998年秋の台風によって箸墓古墳の立木が倒れ根起きして、墳丘から多量の葬送用供献土器と埴輪(はにわ)片が発見され、岡山県・島根県の弥生時代終末期の葬送用土器と同一型式であることが判明。箸墓古墳の年代が3世紀中頃の前後と考えられるようになってきた。

 奈良県桜井市の纏向(まきむく)古墳群の研究が進んで古墳群の年代序列や構成が判明しつつあるが、現在のところ箸墓古墳が卑弥呼の墳墓であると断定はしがたい。ただし年代論や箸墓古墳の土木工学上の隔絶した巨大性を考えると、それが大和政権成立を物語る歴史的人物の登場を示していると考えることはできる。

 私は、箸墓古墳は西暦250年前後の出現期古墳と考えている。



《ここまで分かった!「卑弥呼の正体」 第5回へつづく》