田中少将はガ島争奪の始めから、「ラバウルから600キロも離れたガダルカナルを保持するのは難しい、放棄すべきだ。兵力を何度も分散しガ島を攻めることは、結局無駄であるから、艦隊総攻撃をすべきだ」―などと、軍本部のガ島争奪の方針に異を唱えていた。

 つまりは、摩下司令官の田中頼三少将は日ごろから口うるさい、文句型の不平分子であり、ガ島輸送作戦についても何かと注文をつける“使いづらい”将官であったのである。

 田中頼三少将は山口県出身。軽巡神通、戦艦金剛艦長など水雷戦隊一筋に歩み、艦橋にあっては泰然と、柔和な表情に美髯をたくわえ、180センチを越す長身で、炯々とした鋭い眼光に特長がある。

 合理的精神を尊び、たとえば旗艦長波がドラム缶輸送の隊列中央に位置していたのは全艦の揚陸作業を把握するためのものであり、魚雷一斉射で反転したのも優勢な米大型艦艇との砲戦では日本駆逐艦側に不利と見きわめたためであり、必殺の“酸素魚雷”攻撃だけで長居は無用と引き揚げたのだ。

 ラバウルの三川司令部では、輸送船団による糧食、弾薬輸送のことごとくに失敗。艦砲射撃にくり出した戦艦比叡、霧島の喪失、巡洋艦衣笠、駆逐艦3隻、輸送船11隻なども喪ってしまっていた(第3次ソロモン海戦)。窮余のあげくドラム缶に米、麦その他糧食を詰め、ロープで数珠つなぎにしたものを投下する作戦を案出したのだ。

 米軍機の猛爆下、ドラム缶輸送の駆逐艦群は甲板上を所狭しと缶を積みこみ、主力の魚雷発射管には予備魚雷8本をかろうじて装填するばかり。当然のことながら、田中司令官は味方航空機による上空警戒を司令部に要求した。