第17回 
精神論はノウハウではない


精神論が幅を利かせた時代

 僕が子供の頃から最近までの日本というのは、とにかく、「頑張れ!」と言われ続けてきた時代だったように思う。最初のうちは良かった。頑張れば頑張るだけ、どんどん良くなったからだ。目に見えて変化があった。豊かになったなぁ、と実感できた。しかし、後半はそれがなくなってしまった。頑張っても、さほど変わらない。それどころか、なんとなく寂しくもなる。
 「物質的な豊かさでは心は豊かになれない」などと言う人が増えてきた。とても文化的な物言いではある。「そうだ、そのとおりだ」と強く頷(うなず)く人が大勢いる。
 そうなると、人間性を取り戻そう、もっと絆を大切に、という方へ向かい、ようするにノウハウがただの精神論になっていく気がする。
 貧しいときの精神論は、「なにくそ!」というハングリィ精神に代表されるもので、みんな「歯を食いしばって」頑張った。ビンタされて気合いを入れていた時代だ。
 豊かになったあとの精神論は、「みんなで頑張ろう」という優しさにすり替わったし、「暴力はいけない」という道徳的なマナーも台頭したけれど、でも、言葉だけの「応援」にすぎない点では同じだ。
 何を使って、どんな方法で、という指導をノウハウという。それに対して、「気持ち」への作用を基本にしているのが精神論だ。もちろん、人間の調子は、「気の持ちよう」的なところがあるから、ある程度は「方法」と言えるが、しかし、一般的なノウハウとは言い難い。
 書店などに並ぶ、若者向けの「生き方」「働き方」に関するノウハウ本は、ここを混同しているものが多いし、もちろん読者も混同して本を手にしているのだろう。

「虫のいい本」が売れる?

 人生の道を進むうえで、自分の気持ちをコントロールすることは大事だ。それができることが「自由」という概念でもある。
 これまでにも、ここで何度も書いていることは、全部その一点につながっている。ただ、「では、具体的にどうすれば実現できるのか?」という疑問を、大勢の人たちが抱いているはずである。
 何故その疑問を抱くのか。それは、小さい頃から、「こうすれば上手くいくよ」と教えられ続けてきたからだ。学校でも家庭でも、手取り足取り指導された。自分で考える暇もなく、どんどん押しつけられるようにインプットされたのだ。
 ところが、いざ大人になってみると、どう生きるのか、どう働くのか、どう人と接するのか、わからないことだらけだ。誰も教えてくれない。自分が勉強しなかったからいけなかったのか、と考えて、書店に本を探しにいったりするのだろう。
 なんとなく、それらしいことを書いた本があって、それを読み、なんとなくわかったような気分になる。さて、どうですか? それでずばり解決したのでしょうか?
 そんな簡単なものではない。つまり、皆が欲しがっているノウハウは、この世に存在しないのだ。そんなわかりやすい方法があったら、絶対に小学校で教えているはずだし、生き方の本も仕事の本も、ただ一冊あれば事足りるだろう。
 解決方法がわからないから、場合によって、人によってさまざまだから、ああでもないこうでもない、とつぎつぎノウハウが現れる。
 たとえば、ダイエット法だって、つぎつぎ開発される。実は、食べないで運動する、という究極のノウハウがあるにもかかわらず、ああでもないこうでもない、と方々で謳われ、沢山の本が出る。何故なら、みんな、食べたいし運動もしたくないけれど、痩せたいからだ。
 生き方や仕事のし方についても、これと同じで、みんな、そんなに頑張りたくないのに、楽しく生きたい、楽しく仕事がしたいと望んでいるのである。したがって、「虫のいい本」というタイトルにすれば売れるかもしれない。

作家の仕事もしています

 夏は遊ぶのに忙しいので、執筆はしないようにスケジュールを組んでいる。前倒しで仕事をしているから、来年の春頃までに出る本は、すべて脱稿しているし、今年の秋頃までの本はゲラも校了している。
 毎年六月に、来年出る本の予定を決定し、再来年の仕事の計画を練ることにしているのだ。だから、今僕が死んでも、しばらく森博嗣の本は出続けるだろう。
 お金を貯めることよりも、時間を貯めることの方が、結局は豊かな生活をもたらす、と僕は予感していた。実際にも、だいたいそのとおりだと最近わかった。お金も時間もどちらも貯めてみて、比較の結果から明らかになったことである。

最近作ったトラック。荷台に人が乗って庭園内を運転。積載重量は200キログラムまで。