現在発売中の歴史人7月号「独眼竜政宗の野望」から政宗の意外と知られていない素顔がわかるエピソードを紹介!

酒癖の悪さは天下一品

 古今東西、酒にまつわる失敗は数多く、政宗も例外ではない。政宗は二日いのため体調が悪くなり、二代将軍・徳川秀忠との約束をキャンセルしたことがあるといわれている。
 あるとき酒を飲んでいた政宗は、小姓頭の蟻坂善兵衛の言い訳に激怒し、脇差の鞘で頭を殴ることがあった。その際、怒りに任せて蟄居を命じたようである。しかし、酔いから冷めた政宗は、すぐに別の小姓頭に書状を送り反省の意を表し、善兵衛の出仕を許しているのだ。政宗は素直だった。
 それだけではなく、二日酔いで寝込むことはたびたびで、ときに座を盛り上げようとして、ダウンすることは毎度のことだった。酒に酔って踊り狂い、ついには子息・忠宗から下屋敷に閉じ込められたとの噂が流れたほどだ

じつは男色で契を交わした男性がいた

 政宗と言えば、男色の逸話でも有名である。男色の相手は、小姓の只野作十郎であった。政宗と作十郎は衆道の契りを交わした間柄で、その時期は政宗が四十代後半の頃になろう。ところが、この作十郎に横恋慕する者がいるとの密告があった。この一事が騒動を巻き起こすことになる。
 一連のことを記した政宗の手紙の冒頭は、まず謝罪から始まっている。事情は、作十郎に横恋慕する者がいるとの密告が乞食坊主からあったので、政宗が酒席で作十郎を非難したのである。しかも作十郎の浮気をした相手は、政宗の知る人物だったようた。
 疑われた作十郎は、大きなショックを受けた。作十郎は身の潔白を証明するため、刀で自身の腕を突き、起請文を認めて政宗に届けた。こうして作十郎は、政宗に真実の愛を証明して見せたのである。当時、男同士の契りを誓った者は愛を確かめ合うため、「貫肉」あるいは「腕引」という行為を行った。自分の股や腕に刀を突き、傷つけることが愛の証となったのだ。
 政宗は手紙のなかで「作十郎の行為(貫肉)を聞き及んで、自分がいれば止めさせたのに」と述べ、「本来お返しに自分も同じことをしなければならないが、子や孫がいるので(できない)」と弁解をしている。政宗も若い頃は、しきりに股や腕に刀を突き、男性へ愛を示したようである。
 結局、政宗は自ら血判誓紙を作成し、作十郎に届けた。手紙の文面からは「主君と家臣」という関係を超越し、対等または政宗が必死に懇願している様子がある。これにより、二人はお互いの愛を確かめ合ったのだ。

他人の身だしなみにうるさかった

 政宗は家臣の髪型の乱れを注意することがあった。若い小姓が「ぶた髪」という髪型をしているので、腹を立てているのだ。「ぶた髪」とは髪を引き締めて結い上げるのではなく、緩い状態で結った髪型らしい。同時に政宗は、着物の帯を引き下げていること、長い丈の着物を着ることなど、服装のルーズさにも注意を促していたようだ。ファッション・センスにうるさい政宗にとって、だらしない髪型や服装は許せなかったようである。それは武士の嗜みを忘れた行為であり、平和な世で侍の精神を忘れた者への警鐘でもあった。

心臓に毛が生えている!? 家康の鷹場に侵入

 鷹狩は戦国武将の嗜みとして愛好された。あるとき、政宗は家康と鷹狩に出掛けた。二人の鷹場は、ちょうど境を接していたようだ。ところが、政宗は獲物が取れず焦り、あろうことか家康の鷹場に入ってしまった。すると、そこに家康がやって来たので、政宗は急いで身を隠した。後日、政宗が家康に面会した際、家康が突然、政宗の鷹場に無断で入ったことを詫びた。これを聞いた政宗は驚き、家康に正直に同じことをしたと告白し、大いに笑ったという。

煙草は1日3本まで。健康マニアだった

 健康マニアの武将と言えば、すぐに徳川家康を思い浮かべるが、政宗も劣らぬ存在だった。たとえば、政宗は大変な愛煙家であったと伝わるが、煙草を吸うのは一日に三本以内に決めていた。当時から、たばこは体に良くないと考えられていたのだろう。
 政宗には、高屋松庵など複数の侍医がいた。政宗は毎日脈をとらせて、医学の知識も相当あったという。侍女が熱で寝込んだときは、体温まで気にして、食事は粥を食べさせ、大小の便にも注意を払っていた。薬のことにも明るく、その調合にも指示を出したと伝わっている。しかも自分自身だけでなく、家族や家臣の健康をも気遣ったという。
 こうした医学の知識が、政宗の長命を支えたことは疑いない。

数々の料理を考案した料理家政宗

 政宗が食事にこだわっていたことも有名である。政宗は慶長六年(一六〇一)に仙台城を築くと、城内に「御塩噌倉」を作った。これが「仙台味噌」のルーツであるといわれている。また、「凍り豆腐(高野豆腐)」も政宗が考案したと伝わっている。「ずんだ」も、政宗が枝豆を砕いたことがはじまりであるという。いずれの食品も大豆を用いており、健康に留意する政宗にとって、欠かせない食べものであった。また、政宗の料理の腕前もかなりのものだった。