勝竜寺公園に復元された本丸南門。枡形虎口がステキ!

こんにちは。歴史芸人の長谷川ヨシテルです。

今回ご紹介するのは、京都府長岡京市にある勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)です。

南北朝時代はじめの1339年(暦応2年)に北朝の足利尊氏についた細川頼春が、南朝に対抗するために築かれた平城です。その後、1467年(応仁元年)に始まった「応仁の乱」の時も西軍の拠点となり、戦国時代に入っても武将たちにとって重要なお城となりました。

重要たるゆえんは、その立地にあります。勝龍寺城は、京都の西南(大阪方面)の玄関に位置します。その方面の最前線基地として、出陣・帰陣する大軍を待機させたり、戦で負傷した兵を収容したり、大阪方面から攻め込んできた敵勢に抵抗したりする役割がありました。

そんな勝龍寺城の重要性に目をつけたのが織田信長です。1568年(永禄11年)に信長は上洛すると、細川藤孝に勝龍寺城を与え、京都の重要拠点として大改修を命じたそうです。細川藤孝は幽斎(ゆうさい)という名でも知られている、歌人としても超一流だった戦国屈指の文化人武将です。

ちなみに、明智光秀の三女・玉(ガラシャ)が藤孝の息子・忠興(ただおき)と結婚式を挙げたのはまさにこのお城で、3年間の新婚生活を送ったそうです。城内には銅像が立ち、目の前にはガラシャ通りも走っています。

さて、京都に攻め寄せる敵勢を迎え撃つために築かれた勝龍寺城には、南門と北門に枡形虎口(ますがたこぐち)が設けられていました。枡形虎口というのは、道を直角に曲げて敵の直進を防ぎ、侵入してきた敵を枡の形をした内部で包囲殲滅するための、戦国時代に普及した防御施設です。四方には櫓が築かれ、特に西南の隅櫓は、南門へ押し寄せた敵に対して真横から攻撃できるように、本丸から少し出っ張った位置に築かれていたようです。

そして、一番の強みは、籠城の時に必要不可欠な水源の豊富さかもしれません。本丸からは4か所の井戸が発掘され、1979年(昭和54年)の発掘調査の時もコンコンと水が湧いていたそうです。現在は、地下水をそのまま利用できる水道として整備され、住民の方が絶えることなく続々と補充しに来ていました。これだけの水源があれば、いくら敵に囲まれても籠城戦に持ち込んで長期戦を勝ち抜くことができるに違いありません。

そんな勝龍寺城が歴史上に大々的に登場するのは1582年(天正10年)に起きた「山崎の戦い」です。「本能寺の変」の11日後に起きた明智光秀と羽柴秀吉の「天王山の戦い」としても知られている合戦です。この戦いの時に、京都を抑えていた明智光秀は勝龍寺城を最前線基地として改修したそうです。もちろん秀吉軍を受け止め、自軍の兵を収容するためです、しかし、これが大誤算でした。

勝龍寺城の大きさは、東京ドーム約1個分(≒4.7ha)です。江戸城は2082ha(日本最大)、大阪城は452ha、姫路城は44ha、熊本城は20haですので、有名なお城に比べると、かなり小さいことがわかります。さらに、本丸に限ってみると大きさは105m×70mで、サッカーコート(105m×68m)とほぼ同じ大きさになります。さらに、本丸の内側には土塁が盛られているので、現地に行ってみるとサッカーコートと同じ大きさと思えないかなりの手狭感です。

さて、「山崎の戦い」で敗走した明智光秀は勝龍寺城に兵を集め、秀吉軍を迎え撃つ作戦を取りました。しかし何と、勝龍寺城はあっけなく落城してしまいます。

一体なぜか。

それはどうやら、

・「城が小ぶりで、兵を収容しきれなかった」 
・「城が小ぶりで、秀吉の大軍を受けきれなかった」
・「そんなこんなで、兵の脱走が相次いだ」

からだそうです。

実に本末転倒です。

勝龍寺城で戦うことを諦めた光秀は、密かに北門から脱走しました。そして、光秀はここから居城の坂本城へ落ち延びる途中に、小栗栖のヤブで落ち武者狩りに遭って討ち死にしてしまいます。このお城が目論見通りにきちんと機能していれば、「三日天下」と言われた光秀の運命も変わっていたかもしれません。勝龍寺城は日本の歴史を動かした『最弱の城』の1つなのです。

 

長谷川ヨシテル プロフィール

1986年埼玉県熊谷市生まれ。県下有数の進学校・熊谷高校から立教大学へ進学後、硬式野球部にも在籍。さらにバイオリン演奏やポケモンも得意など多彩な“歴史芸人”。自称、芸能界で一番戦国時代が好きな「れきしクン」。