織田信長肖像画/写真提供アフロ
 
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

信雄は天正14年(1586)に城の大改造に着手。それまであった方形居館を廃し、五条川の対岸に大天守・小天守、書院などを持つ本丸を新たに造営。川を挟んだ地域を内堀と中堀で囲い、さらに町屋部を含めて惣構えの堀と土塁で囲み、それぞれの街道の口には虎口(こぐち/堀や土塁を食い違わせて築き、敵の侵入を困難にさせた出入口のこと)を設けた。そして、豊臣期の巨大な都市清洲が誕生したのである。

近年、河川改修に伴う発掘調査でも信雄段階の石垣や多量の金箔瓦が見つかっている。しかし、発展してきた町も天正18年(1590)の小田原の戦い後の国替えに反旗を翻したため、信雄は除封され、清洲は豊臣秀次(ひでつぐ)の所領となり、さらに文禄4年(1595)には福島正則の居城となった。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは東軍の拠点となり、戦後の国替えでは福島正則は安芸(あき)に転封となり、徳川家康の四男松平忠吉(ただよし)が入った。そして、慶長12年(1607)には家康の九男義直(よしなお)の城となる。

慶長15年(1610)、清洲城下町は名古屋城下に移転命令が下り、慶長18年(1613)名古屋城の完成ともに、清洲は廃城となった。名古屋城御深井丸(おふけまる)西北隅櫓(すみやぐら)は清洲城天守の資材を転用したとされ「清洲櫓」と呼ばれている。現在、城跡は東海道本線と東海道新幹線に分断されており、本丸の土塁の一部が現存するのみである。

現在の、清洲町制100周年で建てられた模擬天守は、位置も違い、形態も全く根拠がない。(了)

 

●清洲城データ
城の種類/平城
所在地/愛知県清須市一場
築城年/応永12年(1405)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。