日米開戦時、軍令部第1(作戦)部長。

開戦2年目より連合艦隊参謀長、

第2航空艦隊長官、第1南遣艦隊長官兼第13航艦長官

終戦時、兼第10方面艦隊長官

海軍兵学校卒業成績8番、海軍大学校同次席(恩賜)卒業。鳥取県出身。

 航海科出身ながら海軍主流の砲術科出身者にくらべても遜色のない、申し分のない経歴である。兵学校卒業後、戦艦長門艦長もつとめ、軍令部、連合艦隊参謀職と海軍中央の軍政、作戦畑をひたすら驀進してきた。

 この輝かしい経歴を見て、だれしも思うことは、この人物が国運を賭した太平洋戦争の作戦計画の中枢部分に据えられた逸材ということだろう。対米開戦か否か。開戦と決した場合、米国艦隊とどのように戦うのか。その将来の展望と戦争終結の方策とは?

 残念ながら、このいずれの設問にたいしても、福留作戦部長の実像は少しも見えてこない。

 たとえば、山本五十六長官の真珠湾攻撃作戦にも、航空主兵の牽命的戦法にたいして表だって反対の旗印をかかげず、肚の中に旧来の日本近海での艦隊決戦思想を堅守しながらズルズルと押し切られる。軍令部員の三代辰吉(戦後、一就と改名=航空作戦担当)が必死に計画断念を訴えるにもかかわらず、中佐、「部長に話を持ちこむと“まあ、話を聞こうじゃないか”と決断を上司に委ねる」。本来なら、“戦術と戦略の神様”であるはずの福留作戦部長が論争の中核にいなければならないにもかかわらずだ…。