ミッドウェー作戦実施についても然り。この作戦部長は、いくら試験答案が優秀であっても、現案の作戦指揮ではほとんど無能に近い。

 山本長官が謀殺されて(海軍甲事件)後、古賀峯一大将が連合艦隊長官に就任したさいにも、イエスマンの福留が乞われて同参謀長に。ところが、この内向き志向の、海軍省内の派閥力学を勝ちぬいてきた新参謀長は、古賀長官遭難死、2番機の自分もセブ島海辺でゲリラに捕えられて捕虜となり、所持する暗号書を奪われるという海軍史上最大の汚辱事を引き起こしてしまった(海軍乙事件)。

 1944年(昭和19)3月、同司令部の根拠地パラオから米空母部隊来襲の誤判断により比島ダバオへの脱出を提言。荒天下で長官殉職という悲劇が生まれたもの。福留中将、随員の山本祐二参謀の2人は次期海軍戦略を記した「乙作戦計画」機密書類ケースをそれぞれ保持していた。これはマリアナ防衛「あ号作戦」の戦略を記した最高機密文書で、2箱ともゲリラの手により一部は豪州へ、一部は元の海岸にもどされた。書類を入手した連合国側は狂喜した、とつたえられる。

 陸軍部隊に救出された福留中将は「ゲリラは自分の身分に気づかなかった」と、捕虜の事実を否定。機密文書も機中で乗機とともに炎上、焼失したと弁明した。さて、内地送還後の隠されたエピソード。軍令部第一部長中沢佑少将の証言によれば―。

「水交舎で一晩、隔離して独りにしたんです。てっきり、自決するものと思いましてね。ところが翌日、元気で起きてきて、『ああ、よく眠れた』と」

 まるで、責任を取る自覚がない。それで海軍部内では、捕虜の事実を公にできず、艦隊長官に栄転へ。比島前線基地では、元気よく特攻隊員を見送る福留長官の姿がニュースフィルムに残っている。

 戦後もしたたかに生きのびて、旧海軍の親睦団体「水交会」の会長に。昭和46年、80歳の天寿を全うした。これが、日本海軍の典型的指揮官像の一人ということができる。