舛添要一・元東京都知事が辞職した。これまでの記者会見等のやり取りを通して、
文豪・島田雅彦が、「犬も食わないメンツ」について語る。

 

「メンツとベンツ」──偉い人が黒塗りの車に乗りたがる理由

 ────東京都知事が辞職しました。発端は、週末の熱海の別荘通いに公用車使ったとか。公用車じゃなくて自腹でタクシー代払って行けと批判されたら、タクシーなんかじゃ、秘密の話もできないから電話もかけられないと、最初は強気に言っていました。「ホントはタクシーに乗るのが嫌なだけだろ」と普通の人は考えます。
 高級ホテルのスイートに泊まったことを批判されたときも、「じゃあ、ビジネスホテルに泊まれというのか。ビジネスホテルじゃ外国の要人と会えないだろ」と憤慨していました。
 誰もビジネスホテルに泊まれなんて言ってないのに。

 私が大嫌いな言葉のひとつに「メンツ」という言葉があります。体面とかプライドとか自尊心とか、いろんな言い換えができるけれども、大人はこのメンツというものにだいぶ呪われている。
 それこそ政治家、役人、社長といった責任あるポジションにいる「偉い人」ほど、このメンツにこだわるというのがあって。そのこだわり方にはさまざまなものがあるけれども、たとえば黒塗りの車やベンツなんかも、メンツのシンボルですよね。
 ハイヤーとか運転手付きの車。タクシーに乗るのは身分が落ちると。地下鉄なんてもっと落ちるので、そういった移動手段ひとつ取っても、運転手付きの黒塗りのベンツなんかの後ろでふんぞり返って保てる地位というか、メンツみたいなのがあるわけです。
 そうやってある程度偉くなった人、出世した人というのは、自分は間違いを起こさないということに拘る。しかし、その人もまた人間であり、間違いを犯すに決まっているんです。
 それで何か不祥事が生じたときに、どうするかというと、それを隠蔽しようと動くわけです。それでも隠しきれなくなったら、今度はその責任を部下になすりつけて、それに気づかなかったのは、自分の監督不行き届きであったとして自分には非がないというように、あくまでも言い張る。
 もっと卑近なところで言えば、浮気していることが暴露されると。それでもあくまでシラを切る。証拠は全部揃っているにも関わらず、最後までシラを切ってなんとか体面を取り繕おうとする。
 これが世に言うところのメンツの正体です。
 このメンツを保とうとしたり、体面を気にしたりした結果、より悪い結果につながる場合もあるわけで。例えば不祥事や不正を隠蔽し続けて、それが白日の下に暴かれて、もうどうにも申し開きができなくなったところで、責任を取らざるをえなくなってしまう。醜態を晒した上に、多額の賠償金も生じたりすることもあるわけで。
 最初から、あれこれ追及される前に自分から非を認めて、責任は取りますと潔く身を引くなりなんなりしたほうが、本人の痛手も少なくて済んだかもしれないのに、メンツにこだわって、それを守ろうとした挙句、取り返しのつかないことになる。それもメンツなんてものに拘るから失敗しているわけです。 

 

 

 

常に自分を内省する。それが大人

 ────メンツという言葉って、どうしてもアウトロー方面の方を最初に思い浮かべてしまうのですが。
 
 それは、違いますね。基本、本当の大人というのは、そんなどうでもいいメンツになんか、拘りはしないものです。むしろ自分の間違い、自分の弱さ、自分のマイナス面をはっきり認める。すべてはそこから始まるんです。そういうところから目を逸らした上に隠してしまうのは、その人間が成熟してないからなんです。
 私はそういうことを含めて、大人というものは定期的に内省すべきだと思います。要するにこれまで自分が辿ってきたこの道筋に、不正や間違いはなかったかどうか。自分はメンツというものに囚われて何か大きな過ちを犯していないかどうか。その辺りのことを、一度、自分を丸裸にして赤裸々な告白をする。そういうイベントを持ったほうがいいんじゃないかと思います。
 例えば、回想録だとか自伝、自分史といった類のものは、日経新聞の「私の履歴書」を読めばわかりますが、それなりに功成り名を遂げた人たちが自分の歩んできた道というものを滔々と述べているわけですが、早い話がたいていは自分の手柄話と自慢に終始しているのが常です。

 ────「私の履歴書」に、実は昔、部下に手を出して子どもを生ませたが、認知もしないでそのまま捨てたとか書いてあったら衝撃的ですけどね。
 
 そういうのなら私も読んでみたいですが、そういうことは絶対に書いてない。しかし本当に他人の自慢話ほど退屈なものはない。
 そこで私小説の手法を用いて、自分が犯した罪を洗いざらい告白する。そういう感じで赤裸々な自己表出というか懺悔をする。別にそれを公表する必要はないけれども、定期的にそういうことを行なったほうがいいと思います。
 自分にはそれなりの地位も収入もあるけれど、実は取るに足らない、ちっぽけな存在なのだと。メンツばっかり気にして生きている小物なのだということを、その都度その都度はっきりと自覚すべきだと思う。そこから初めて謙虚さや、本当の意味での倫理を知ることができ、初めて正義というものを正面から追求する権利を獲られるわけです。

 ────見てくれとかメンツにこだわる人というのは、本当の自分をさらけ出すとなったら、普通の人以上に恐怖を覚えるんじゃないでしょうか。筋肉隆々のマッチョが、意外とメンタルが弱かったりするじゃないですか。

 そう、それ。だいたいコンプレックスの裏返しなんです。でも、それを隠そう隠そうとするから、イザというときに裏目に出るわけです。

 そういう人間が権力の座についてしまうと、自分にとって不都合な事実は力技で隠蔽できるし、不正な命令を下したとしてもそれが組織のためなんだと自分に対しても言い逃れできる。そうやって、一個の人間として守るべき倫理というものが失われていくんです。

 ────企業の人事評価のシステムは、倫理的にその人が正しいことをしているかどうかより、会社にどれだけ利益をもたらしたかというところしか見ていない。
 それで、なにか目立つことをして失敗すると出世コースから外れてしまうという減点主義がはびこっている。出世するのは可もなく不可もなしみたいな人間か、社長の腰巾着みたいな人間なのは、巷でもよく言われている。

 世渡り上手でないというか、社内遊泳術に長けていない不器用な人、別の言い方をすれば誠実な人は、だいたい途中でなにかの責任を取らされたりとか、ひとり思い悩んで精神的に追い詰められたりとかで、せいぜい課長か部長でリタイヤみたいなね。

 ────出世して偉くなって、黒塗りの社用車に乗って毎晩、銀座の高級クラブへ……みたいな話って、高度成長期にはよくあったと思うんですけど、実を言うと、いまの時代もぜんぜん変わってないような気がする。

 結局雇用のシステムは昔のようにはいかないにも関わらず、それらをここ二十年、三十年ぐらい一切リニューアルしないまま、その組織旧来の株式会社の組織のままやってきたということでしょうね。
 だからそれで割を食ってるのが、非正規雇用とかアルバイトの人たちで、こういう人たちを大量に生み出すことによって、正社員の給与とか福利厚生とか優位的なポジションを維持してるんでしょう。
 「雇用の流動化」などと言って、従業員の首を切りやすくしたり、そうやって末端の労働者たちの賃金を据え置くことで、企業の負担を減らすというようなことをやってきただけでしょ。誤魔化しじゃないですか。それで賃金を上げていないのだから、デフレだって脱却しようもないでしょう。

 <聞き手・白崎博史/写真・髙橋亘>
 *本文は「筋金入りのヘタレになれ」(ベスト新書)におけるインタビューを再構成したものです。