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江戸時代の「女の値段」について考えたい。

ここで話題にする値段は、揚代(遊女を買うときの料金)ではなく、女が妓楼(女郎屋)に売られる(身売り)ときの金額である。

歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』には、早野勘平の妻お軽が京都祇園の妓楼に身売りをして金を作る有名なエピソードがある。その金額は100両。落語の『文七元結』では、職人の娘が一家の窮状を救うため吉原に身売りをする。その金額は50両。落語『柳田格之進』でも、妻が浪人している夫のために吉原に身売りをする。その金額は50両。

歌舞伎や落語に出てくる身売りの代金は50両とか100両とか、かなり高額である。では、50~100両が相場だったのだろうか。

そもそも『仮名手本忠臣蔵』は赤穂浪士の討入りを踏まえまがら、幕府に遠慮して時代を南北朝の足利将軍のころに設定しており、荒唐無稽な時代考証で成り立っている。お軽の身売りの金額の100両にまったく信憑性はない。

落語はたとえ古典落語でも時代や演者によって改変がなされている。50両は、現代の聴衆にわかりやすい、切りのよい数字であろう。つまり、歌舞伎や落語は参考資料にはならない。

では、史料ではどうか。『よしの冊子』に寛政元年(1789)、12歳の女の子が18両で吉原の妓楼に売られたとある。

『世事見聞録』(文化13年)には、「越中・越後・出羽の貧農が生活に困り、3~5両で娘を売っている」という意味の記述がある。これは女衒(ぜげん)の買い取り価格である。女衒が女の子を妓楼に転売するときはもっと高くなった。

『宮川舎漫筆』(文久2年)と『きゝのまにまに』(文久2年)に拠ると、安政4年(1857)、下級武士の娘が貧窮におちいった親きょうだいを助けるため吉原に身売りをした。武士の娘は吉原ではいわゆる「上玉」だが、それでも金額は18両だった。落語や歌舞伎で相場となっている50~100両にくらべると悲惨なくらい低い金額だが、これが現実だった。

近代ではどうだろうか。『光明に芽ぐむ日』(朝日文庫から『吉原花魁日記』として再刊)の著者の森光子は明治38年(1905)、群馬県高崎市の貧しい家に生まれた。光子は大正13年(1924)、19歳のときに吉原に1350円で売られた。周旋屋(江戸時代の女衒に相当)にピンハネされ、実際に手にした金額は1000円と少々だった。

当時の物価と比較してみよう。
『値段の明治大正昭和風俗史』によると、
自転車(大正8年) 45~60円
ビール(大正15年) 42銭(0.42円)
巡査の初任給(大正9年) 45円
くらいである。

そんな時代のおよそ1000円で、19歳の森光子は吉原に売られた。売られたとき、光子は処女だった。