織田信長肖像画(写真提供/アフロ)

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

信長は頃あいを見計らい、改めて移転先を小牧山と表明。清洲より近くなったことを受け、反対がなくなり、小牧山への移転がスムーズにいったことが『信長公記』(首巻)には記されている。

城は山全体(約21ヘクタール)を城域とし、縄張り研究では山頂の主郭地区、正面に当たる大手曲輪(くるわ、注)地区、本丸の西に当たる西曲輪地区、大手口西側に当たる西部帯曲輪地区、西裾にあたる西側谷地区、家臣団屋敷の東部帯曲輪地区の6つの地区で構成されていたとしている。 

特に麓の東部帯曲輪地区は信長の下屋敷と考えられている南西隅のひときわ大きな曲輪を始まりとして、反時計回りに重臣の屋敷と考えられる方形の曲輪が取り囲んでいる。本丸へのアプローチは、南に設けられた大手口から上がる。

大手道は直線的に中腹まで登っており、そこから折れて本丸に入る構造を取っている。この姿が後の安土城の姿に酷似していることから、安土城に先行する城の姿として信長の意識が表れているといわれている。(続く)

 

(注)曲輪/城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域のこと。複数の区域をつなぎあわせることで構造を複雑にし、敵の侵入を妨げるように工夫した。「郭(くるわ)」とも表記する。

 

●小牧山城データ

城の種類/山城
所在地/愛知県小牧市堀の内1-1
築城年/永禄6年(1563)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀等

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。