織田信長肖像画(写真提供/アフロ)

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

直線的な道を中心とし左右に屋敷を振り分ける曲輪配分の作り方は、山岳寺院によく見られるスタイルであり、谷部の中心に道を据えた丘陵地形を活用した城造りの基本的な形であると考えられる。そういう意味においては、小牧山城も安土城もまだまだ中世・戦国色の強い縄張り構造であるといえるであろう。 

城には石垣、堀、土塁が良好な形で依存しているが、家康段階の造作と信長段階の造作との区別が難しい。大手道との位置関係から考えると信長の下屋敷と考えられている曲輪の位置にも疑問が残るであろう。 

さて、本丸(注)は方形でさほど敷地は広くない。石垣の存在などから天守の存在が話題となっているが、信長段階に天守が存在していたという痕跡は明確には認められていない。記録的にも時期的にも大櫓くらいが妥当かもしれない。 

また、山麓南側から西側にかけては、人々を清洲から移転させ新しい町づくりとして城下町が形成された。町は地籍の研究から城の正面に東西5本、南北4本の直線的な主要道で区画された街区が配置され、新町を中心に西側地区には油屋町、鍛冶(かじ)屋町、紺屋町などの商工業者、東側は家臣団屋敷が配置された。 (続く)

 

(注)本丸/天守や御殿を配置して城の中核を担う。また戦闘時には司令部となる。

 

●小牧山城データ

城の種類/山城
所在地/愛知県小牧市堀の内1-1
築城年/永禄6年(1563)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀等

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。