新選組の維新後の生き残りといえば、斎藤一に永倉新八、島田魁らが有名だ。中島登は、知名度では歴戦の隊長や伍長に譲るが、同志を描いた『戦友姿絵』によって、確かな足跡を遺した。その生涯と、絵に秘められた想いに迫る。

勝海舟は「徳川幕府は徳川家の私的政府である」と喝破した。アメリカにわたってその共和政権を見た彼は、「徳川幕府は日本国の政府でもなければ日本国民の政府でもない」と見抜いていた。

中島登(のぼり)の思想は「徳川家に志(こころざし)を連ねる」ということで、幕府のためとは考えていない。おそらく幕府の始祖徳川家康が、八王子に千人同心を創設した時の思いを、「神君は江戸の中でもとくに多摩」の農民を愛していた」というように受け止めたに違いない。多摩地域がずっと天領(幕府直轄領)であったことも、この考えを温存させた。新選組を結成した近藤・土方たちも「親徳川」をつらぬく人々であって、「親幕府」ではない。

この思想を保ちつづける登は、近藤勇の刑死後、今度は土方歳三の付き人として行動をともにする。

新選組を配下において京都治安の任にあたり、多大な成果をあげた会津藩主松平容保は朝敵にされてしまった。江戸が無血開城になったため、官軍は振り上げた拳(こぶし)のおろし場に困り、将兵の戦意は不完全燃焼に陥った。どこかに燃焼の場が必要だった。会津はかっこうの標的になった。スケープゴートである。官軍は会津に殺到した。