新選組の維新後の生き残りといえば、斎藤一に永倉新八、島田魁らが有名だ。中島登は、知名度では歴戦の隊長や伍長に譲るが、同志を描いた『戦友姿絵』によって、確かな足跡を遺した。その生涯と、絵に秘められた想いに迫る。

 

1・26歳〜29歳/元治元年(1864)秋頃〜慶応3年(1867)秋頃
新選組入隊を希望した登は、近藤勇の命で武蔵・相模・甲斐3ヵ国の地理や民情の調査に従事。正式な入隊を許されたわけではなく、隠密の任務だった。

2・29歳〜30歳/慶応3年(1867)晩秋から慶応4年(1868)1月
「局長付」として新選組の正規の隊員となる。近藤勇の秘書役だったため、近藤が伊東甲子太郎配下の篠原泰之進らに襲撃され負傷すると、京都から撤退し大坂城に退いたと思われる。

3・30歳/慶応4年(1868)1月〜慶応4年4月
鳥羽伏見の戦い後、兵庫沖から江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう。流山で近藤勇が出頭すると、土方に命じられ、その奪還を試みるも果たせず。

4・30歳/慶応4年(1868)4月〜明治元年(1868)9月
近藤斬首後、登は土方歳三に従って会津を目指す。母成峠(ぼなりとうげ)の敗戦、会津藩降伏を経て、土方、大鳥圭介らとともに箱館を目指した。

5・30歳〜31歳/明治元年(1868)10月〜明治2年(1869)5月
箱館線戦争に参加し、主に弁天台場を守った。土方の戦死、旧幕軍降伏後に投降する。その後、死んでいった隊士たちを「戦友姿絵」として遺した。